Q1.どういう女性が「慰安婦」にさせられたのですか?

日本軍の「慰安婦」にされた女性は、日本人だけではなく朝鮮人、台湾人、中国人、華僑(華人)、フィリピン人、インドネシア人、ベトナム人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人、ユーラシアン(欧亜混血)、太平洋諸島の人々、オランダ人などでした。

このうち台湾人女性や朝鮮人女性は、日清戦争(1894-95年、日本対中国=当時は清)や日露戦争(1904-05年、日本対ロシア)を通じて日本が「領有」した植民地の女性であり、それ以外は日本による十五年戦争(1931-45年、日本の対中国戦争、1941年からはアメリカなど連合国と戦った)の期間に侵略・占領した、中国などアジア・太平洋諸島の占領地の女性でした。オランダ人女性は、当時オランダの植民地だったインドネシアに日本が侵攻し、日本軍がつくった民間抑留所に入れられたときに「慰安婦」にされました。つまり、日本人女性をはじめ、日本によって植民地にされたり占領されたアジア・太平洋諸島の広大な地域にまたがる女性が「慰安婦」にされたのです。

「慰安婦」にされた女性たちには、地域ごとに特徴がありました。日本人女性の場合は、公娼制度(※1)下の女性が海外の慰安所に行かされたケースが多いのですが、戦争末期には日本で唯一戦場となった沖縄で遊郭の日本人女性が「慰安婦」にされたケースもあります。一方、植民地の女性、とくに朝鮮人女性のなかでもっとも多いのは、未成年の少女が「工場で働ける」などとだまされ日本軍が駐屯しているアジア各地の慰安所に連れて行かれ長期間にわたって「慰安婦」をさせられたケースです。たとえば、中国のなかで「随一」の規模だった漢口慰安所を兵站司令部(※2)の慰安係長として管理・統制していた山田清吉は『武漢兵站』のなかで、「内地から来た妓はだいたい娼妓、芸妓、女給などの経歴のある20から27,8の妓が多かったのにくらべて、(朝鮮)半島から来たものは前歴もなく、年齢も18、9の若い妓が多かった」と回想しています。前歴とは遊郭にいたということです。慰安所設置の理由の一つは”兵力低下をまねく性病防止”(Q3参照)だったので、「前歴のない」=若くて性病経験のない女性が求められました。しかしそうした日本人女性を「慰安婦」にすることは支障があったので、その役割を植民地や占領地の女性に押しつけたのです。ここには性差別に加え、民族差別の論理が働いているといえます。

ここで見逃してはならないのは、「慰安婦」にされた朝鮮人女性の置かれた状況です。彼女たちのほとんどが連行当時未成年であり、農村の貧しい階層の出身者でした。日本の植民地政策により朝鮮農民の多くは土地や食糧を奪われ、生活は貧窮していきました。また日本と違って義務教育制がなかった朝鮮では、高額な授業料のため多くの朝鮮人は教育が受けれませんでした。とくに女性は男尊女卑思想もあいまって、学ぶ機会が閉ざされました。抵抗が許されない日本の統治下で、教育を受ける機会に恵まれず、生活難・就職難に直面した朝鮮人少女たちにとって、生きるための選択の余地は限られていました。日本軍の意をうけた周旋業者は、そうした彼女たちの貧しさや無知につけこみ「仕事がある」「金が儲かる」「働きながら学校に行ける」とだましたのです。このように、貧困を背景にした詐欺・甘言、それ以外では暴力的な連行や人身売買により「慰安婦」にされました(Q7参照)。ナチスドイツも日本軍と似たような性暴力制度をもっていましたが、母国から遠く離れた遠隔地にある戦場に植民地の女性を連れて行ったのは日本軍だけです。

占領地の女性は、地元で日本軍による拉致や暴力的連行によって監禁され性の相手をさせられたり、慰安所で「慰安婦」にされたケースが多かったといいます。それだけではなく、1937年12月に日本軍が起こした南京大虐殺のときに多くの中国人女性が日本軍将兵によって強かんされ殺害されました。「慰安婦」被害の背景には日本兵による無数の強かん・輪かんの性暴力被害者がいたことを忘れてはならないでしょう。中国やフィリピンでは抗日運動をした女性を”みせしめ”のため、強かんや「慰安婦」にした例もありました。

いずれにせよ各国の「慰安婦」にされた女性に共通するのは、貧しい階層出身であったことです。日本人「慰安婦」にしても、そもそも貧しい階層出身でした。したがって、「慰安婦」への「女性の選別は、民族・人種、貧富、ジェンダーによる差別が交差したもの」(女性国際戦犯法廷ハーグ最終判決、※3)とみることができます。

しかしながら女性の前歴や連行時に物理的な強制があったかどうかにかかわりなく、慰安所で待ち受けたのは日本軍の性奴隷生活でした。日本軍「慰安婦」制度でもっとも重要な点は、日本軍の考案により組織的かつ広範囲に慰安所を設け、人格をもった女性の性を日本軍の「戦争遂行の道具」「性奴隷」とした戦争犯罪であったことにあります。

(注)
※1 公娼制度:女性の売春―男性の買春を国家が公認する制度で、1958年に売春防止法施行で廃止されるまで続いた。指定された地域(遊郭。貸座敷とも呼ばれた)で売春業者の営業を認め、貧しさのため身売り(人身売買)をさせられ前借金にしばられた女性たちは遊郭に閉じ込められ売春を強いられた。その意味で、国家公認の性奴隷制度であった。
※2 兵站:作戦軍に軍需品を供給する軍の施設・機関。
※3 女性国際戦犯法廷ハーグ最終判決:法廷については、Q7参照。ハーグ判決とは、2001年12月にオランダ・ハーグで出された法廷の最終判決文。全訳はVAWW-NET ジャパン編『2000年女性国際戦犯法廷の全記録(2)』2002年、緑風出版に所収。

Q2.慰安所設置の指揮・命令系統はどのようなものだったのですか?

日本軍慰安所が最初に設けられたのは、1932年はじめの上海です。このとき上海派遣軍の参謀副長と高級参謀が慰安所設置の指示を出し、参謀が実際の設置にあたりました。1937年からの日中戦争の際には、中支那方面軍が慰安所設置の指示を出し、その下にある上海派遣軍は参謀二課(補給などの後方担当)が案を作って南京での慰安所設置を進めます。華北にいた北支那方面軍では参謀長が慰安所設置を指示しました。このように陸軍の派遣軍司令部が直接、慰安所設置にあたっていました。

派遣軍の指揮下は、軍-師団-旅団-連隊-大隊―中隊という順になっていますが、それぞれの段階で、補給などの後方担当の参謀や副官、憲兵などが「慰安婦」の徴集や慰安所設置にあたっています。もちろん軍の頂点にいたのは大元帥であった天皇でした。

海軍の場合は、海軍省、各艦隊司令部、占領行政にあたった海軍民政部などが慰安所の設置運営に関わっています。

1938年の内務省資料を紹介しましょう。中国の華南にいた第21軍が「慰安婦」を集めるために参謀を東京に派遣しました。その参謀は陸軍省の課長とともに内務省警保局(現在で言えば警察庁)に出向いて女性集めを依頼しました。それを受けて警保局では、警保局長の名で府県知事に通牒を出して、県が業者を選定して女性を集めさせること、また業者に便宜を供与するように指示しています。参謀本部のスタッフも女性の輸送に関わることになっています。内務省から指示を受けた府県では、業者を選定し、集められた女性の身元を調査し身分証明書を出す必要がありましたが、そうした仕事は警察がおこないました。知事→県警察部長(現在の県警本部長)→各警察署長と指示が伝えられ、警察署の警察官が動いたことは間違いありません。

つまり中国への派遣軍、中央の陸軍省・参謀本部という陸軍の組織だけでなく、内務省警保局、府県知事・県警察部長・警察署というように日本政府の中央から地方機関までが「慰安婦」の徴集と送り出しを組織的におこなっていたのです。このときには台湾総督府にも同様の依頼をおこなっており、そこでも台湾総督府の地方組織・警察が組織的に動いたことはまちがいありません。これは日本や台湾の女性を「慰安婦」として連れて行った例ですが、このように日本軍慰安所制度の設置運営は日本軍の機構全体にとどまらず政府・地方行政全体が関わった、国家ぐるみの行為でした。

さらに付け加えれば、実は上海の日本軍慰安所に女性を日本から連れて行こうとした業者らが女性の国外移送誘拐罪で逮捕され、1937年3月に大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定していました。ところが内務省警保局は翌38年2月、つまり慰安所開設が本格化する時期に、女性の送り出しを「必要已むを得ざる」と認める通牒を出しました。つまり最高裁判所が犯罪であると認めた行為を放置するだけでなく、ここで紹介した1938年の資料のように政府自らが犯罪行為を手がけたのでした。だからその通牒には、業者が自発的にやっているかのように装い、政府や軍の関わりを秘密にするように指示していたのです。そういう点からも慰安所制度は日本の国家ぐるみの犯罪であったと言えるでしょう。

(注) 軍司令官や師団長を補佐し作戦計画や命令を作るのが参謀です。そのトップが参謀長、次に参謀副長、そして参謀たちです。参謀の中で最も重要な作戦を担当するものを高級参謀とも言います。

Q3.慰安所は誰が、どのような目的で作ったのですか?

近代の各国の軍隊にとって、やっかいな問題の一つが将兵の性病問題でした。治療薬が開発されたのは1910年のことですが、副作用がきつく、しかも直るまでに数ヶ月以上かかりました。そのため性病に罹ると将兵は戦闘力として役に立たなくなるのです。ペニシリンによる治療が普及するのは第2次世界大戦後まで待たなければなりませんでした。

世界の主要国の対策を見ると、日本やフランスなどでは売春宿を公認し管理することで性病を防ごうとしました。他方、軍隊駐留地周辺から売春宿を追放し、将兵に買春させないことで防ごうとしたアメリカのような例もあります(アメリカについては少し説明が必要ですが、公式には売買春を認めない政策は変わっていません)。

日本軍が「慰安婦」制度を作った理由の第1は将兵が性病に罹るのを防ぐためでした。「慰安婦」を慰安所に閉じ込め、軍医が定期的に性病検査をおこなって性病を防ごうとしたのです。しかし日本軍の特徴は第2の理由によく示されています。それは1937年の日中全面戦争が始まってからの日本軍将兵による強かんの多発でした。上海から上陸して南京に向かう途中での強かんの多さは特に有名ですが、それ以外にも中国各地で強かんが頻発したのです。1938年6月に北支那方面軍の岡部直三郎参謀長の名前で指揮下の部隊に出された通牒「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件」があります。このなかで「各所に於ける日本軍人の強姦事件が全般に伝播し」と強かんが頻発していることを認め、そうした強かんや略奪、家屋の焼却など日本軍の非行が「深刻なる反日感情」を引き起こしている点に注意をうながしています。そしてこうした強かんなどを減らすために「性的慰安の設備を整」えるように指示しているのです。日本軍将兵の強かんのあまりの多さへの対策として大規模な慰安所制度の導入があったと言えるでしょう。

ほかにも理由を挙げるとすると、第3に、いつ終わるかもわからない、しかも何のために戦っているのかもわからない大義名分もない戦争で、兵士の精神はすさんできます。しかも休暇制度もなく兵士たちは長期間、戦場にとどめられます。こうした兵士たちはむやみやたらと略奪強かん、殺人をおこなうようになります。そうした兵士をなだめようとしたことも一つの理由としてあげられるでしょう。もう一つ、4つ目の理由としては将兵が民間の売春宿を使うと軍の情報がもれる恐れがあると考えて、軍慰安所を設けて「慰安婦」を隔離し情報統制に努めたことがあげられます。つまり軍の機密保持という理由です。

ところでこうした意図は慰安所設置によって解決できたのでしょうか。強かん防止について言えば、慰安所設置後も強かんは跡を絶ちませんでした。将校や下士官が慰安所に入り浸っているのに、下級の兵士は時間的にも金銭的にも慰安所に頻繁に行けなかった代わりに、作戦で出動してはタダでできる強かんをくりひろげました。また慰安所は主な都市にしか設けられなかったので、小さな町や村に駐屯した部隊は村長に強制して女性を提供させたり、拉致してきた女性を監禁し輪かんをおこないました。日本軍が慰安所を堂々と設置したことによって、かえって日本軍の隅々にまで強かんをはびこらせることになったのです。

Q4.慰安所は誰が管理・経営していましたか?

そもそも「慰安婦」制度を考案・設置にのりだしたのは日本軍の高級参謀(Q2参照)ですが、その後の開設にも軍のエリートが関与しました。たとえば、中曽根康弘元首相は、回想録で戦時中に海軍の主計将校であったときに「(三千人の部隊のために)私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」(『終わりなき海軍』)と述べています。戦後、産経新聞やフジテレビの社長となった鹿内信隆氏は、陸軍経理学校で慰安所の開設のし方を教わったと語っています(『いま明かす戦後秘史』上巻)。

それだけではなく、軍は慰安所の管理・経営にも深く関与しました。慰安所には、軍の関与の程度からみて次の三つのタイプがありました。(1)軍が直営する慰安所、(2)軍が管理統制して業者に経営させる軍人専用慰安所、(3)民間の売春宿を指定して一定期間使う軍指定の慰安所、です。ここで日本軍・日本政府の責任を考える上で、とくに問題になるのは(1)(2)なので、それぞれ見ていきましょう。

まず、(1)の軍直営慰安所ですが、これは軍がみずから女性を集め、慰安所を建設したり建物を接取して慰安所につくりかえ、慰安所を直接管理・運営したものです。上海派遣軍の兵站病院に勤務した麻生徹男軍医の回想によれば、1938年初め頃に上海の楊家宅にできた慰安所は軍直営でしたが、麻生軍医は約百名の「慰安婦」の性病検診をしました(麻生『上海より上海へ』)。これは、上級司令部の指令で女性が「慰安婦」と認められ一定の管理規則下におかれる場合です。一方、上級司令部の統制外で配下の軍人たちが拉致してきた女性を監禁して輪かんを繰り返すケースがありました。中国山西省の性暴力被害者の場合がこのケースにあたります。いずれにせよ(1)の場合は、日本軍みずからが管理・運営していたのですから、軍に責任があるのは明らかです。

次に、(2)の軍専用慰安所です。女性集めや日ごろの経営は業者にさせたため、いっけん軍には責任がないようにみえますが、そうではありません。軍は女性集めのため軍の証明書を出して便宜をはかり、軍用船などの「慰安婦」の輸送手段を提供しました。軍は慰安所経営をする業者を選定し、慰安所の建物や食糧などを業者に提供しました。また軍は慰安所規則をつくり、各部隊の利用日を指定したり利用料金を決定しました。「慰安婦」の性病検査をおこなったのは軍医でした。さらに軍は業者の慰安所経営・管理を監督し、詳しい報告書を提出させました。慰安所を憲兵などの監視下におき、「慰安婦」の外出なども軍の監視下におきました。またコンドームの支給もしました。いうまでもなく、慰安所を利用したのは軍人・軍属でした。業者が日本軍の意向を無視して、勝手に開設・経営することはできませんでした。つまり慰安所の主体は軍、次いで業者であり、債務奴隷状態におかれた女性たちが主導権を握ることはありませんでした。

このように日本軍は慰安所の管理・経営に積極的に関与しました。このことは日本政府が自ら認めた歴史的事実です。1990年6月に日本政府高官は「(慰安婦は)民間業者が勝手に連れ歩いた」と国会で答弁し軍の関与と責任を否認しましたが、1992年1月に軍の関与を立証する公文書資料発見の報道が流れると、一転して軍関与を認めました。その後、日本政府が1992年7月に加藤紘一内閣官房長官(当時)が、1993年8月には河野洋平内閣官房長官(当時)が、公文書を調査し被害者へのヒヤリングをするなどした調査結果を公表しました。とくに河野官房長官は「慰安所は、軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与」したと軍の関与を認め、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」であり、「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」とであると「お詫びと反省」を表明しました(以上、「河野談話」)

以上のように、日本軍が慰安所の管理・経営に関与し責任があるのは、明らかです。

Q5.「慰安婦」にされた女性たちはどのくらいいるのですか?

「慰安婦」にされた女性はどのくらいいるのかという質問に答えることは簡単ではありません。戦争の末期には日本本土にも慰安所が設置されましたが、それまではほとんど海外でした。海外にいた日本軍人の数は太平洋戦争中は200から300数十万人です。軍人数十人に「慰安婦」が一人の割合で配分されたようですが、何年も「慰安婦」にされていた女性もいれば、比較的短期間で入れ替わっている場合もあります。日本や朝鮮から連れて行かれた場合は、帰国するチャンスがほとんどなかったので、病気などで死亡したり捨てられたりしないかぎり比較的長い間「慰安婦」にさせられていますが、現地女性の場合、かなり短期間です。仮に軍人300万人として、100人に1人の「慰安婦」がいて、太平洋戦争中の交代が1.5(半分入れ替わる)と仮定すると4.5万人になります。これはかなり少なすぎる見積もりです。軍人30人に1人として、交代を2(全員が一度入れ替わる)とすると20万人となります。30人に1人はかなり多めの見積もりです。こうした推計から数万人から20万人の間ではなかったかという推定が可能です。

ところで太平洋戦争開戦の翌年1942年の1年間に陸軍が海外の部隊に送ったコンドームの数が3210万個です。平均すると1日あたり9万個、1週間あたり60万個余りになります。慰安所の利用は休日に集中することを考えると、ある時点をとれば数万人の「慰安婦」がいたことは推測できますがそれ以上くわしい人数を特定することは難しいでしょう。

ところで日本軍による性暴力の被害者を組織的であるかどうかの点で考えてみると、第1に都市部の軍が管理する慰安所で運営規則や「慰安婦」の名簿が作られ定期的に性病検査がなされる慰安所があります。ここでは日本や朝鮮、台湾から連れてこられた女性が多いと言えます。第2に町や村に駐留する部隊が独自に女性を集めて開設する慰安所があります。村長に女性を提供させたり、拉致して連れてきたりかなり暴力をむき出しにする傾向が強くなります。慰安所とは呼ばれても、規則も作られず名簿の管理や性病検査もかなりあいまいになる傾向があります。第3に、第2のタイプに近いのですが、ただ拉致してきた女性をどこかの家にある期間監禁して将兵たちが次々と輪かんするようなケースもあります。そのほか、将校や下士官が自分一人のために女性を監禁して愛人のようにした場合、いわゆる輪かんのケース、一人の兵士による単発の強かんなどさまざまなケースがあります。

さて「慰安婦」とはこれらのタイプのどれを指すのでしょうか? 第2と第3のタイプを「慰安婦」と言うかどうか、研究者の間でも意見が分かれます。戦後補償裁判の事例のなかではフィリピンや中国の山西省のケースがこの二つのどちらかにあてはまるでしょう。

人数の問題にもどると、最初に推計したのは明確に慰安所として設置されている場合(第1と、広くとっても第2まで)であって、第3のタイプのようなケースを含めるとこの数字をはるかに上回ることは間違いないでしょう。

どの国・地域の女性が多かったのかという点ですが、以前は朝鮮人女性が圧倒的に多かったと思われていたのですが、調査研究が進むにつれ、中国や東南アジアの現地女性がたくさん「慰安婦」にされていたことがわかってきました。先の紹介したタイプでいえば、後の方ほど現地女性が増えていきます。朝鮮人と中国人のどちらの「慰安婦」が多かったのか、という質問にもはっきりとは答えられない状況です。もちろん第3のタイプまで「慰安婦」に含めればおそらく中国人女性の方が多かったと言えるでしょう。

「慰安婦」は日本軍による性暴力の被害者の一つのタイプであって、「慰安婦」として定義された女性たちの回りにはそれに倍する性暴力被害者がいるということを忘れてはならないでしょう。

Q6.女性たちはどのように集められましたか?

<朝鮮や台湾から集める場合>
よくみられるのは、(1)中国などの戦場に派遣された現地軍が、その指揮下の各部隊に慰安所をつくるようにと指令を出す→現地軍が選んだ民間の業者が朝鮮、台湾に送られる→業者がそれぞれの地域の警察や憲兵の協力をえて集める、というケースです。また(2)現地軍の要請で、日本内地の部隊や植民地にあった朝鮮軍・台湾軍(いずれも日本陸軍)が業者を選んで集める場合もありました。軍は業者に「慰安婦」を集めるための資金や便宜(渡航許可の証明書など)を与えました。とくにアジア太平洋戦争以後は、日本国内や植民地から「慰安婦」を国外に送る場合、軍の証明書なしにはできませんでした。

また、朝鮮総督府が女性集めに関与した例としては、次の関東軍(※1)司令部の証言があります。1941年7月から行われた関東軍特種演習は、対ソ連戦準備のための日本陸軍始まって以来の大規模な兵力動員でしたが、ここに朝鮮人「慰安婦」が大量に動員されました。これを企画した関東軍司令部参謀の原善四郎は「必要慰安婦の数は二万人”とはじきだし」、朝鮮総督府総務局に行き依頼しましたが、「実際に集まったのは八千人ぐらい」と述べています(※2)。原の部下で実務を担当した村上貞夫は「三千人位」(※3)と証言しています。いずれにせよ大量の朝鮮人女性が、関東軍の指示と朝鮮総督府のルートという行政的な強制力によって、「慰安婦」として中国東北に動員されたことになります。台湾でも台湾総督府が女性集めに関わったことが公文書で明らかになっています(※4)。

さて、被害者や日本軍兵士の証言からみてもっとも多いのは、未成年の少女がだまされて連れて行かれたケースですが、未成年が多かったのは日本軍が性病対策のため若くて性経験のない女性を必要としたためと考えられます(Q1参照)。「お金が稼げる仕事がある」(朴永心)、「勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげる」(文必)、「戦地にいけば金がもうかる」(宋神道)、「日本の工場に仕事がある」(金順徳、朴頭理)、「白いご飯が食べられる」等の理由で騙されて連れて行かれたら慰安所であったことに気づくというケースです。これは、次の日本軍元軍曹の回想記からも確認できます(※6)。スマトラのパレンバンで憲兵として慰安所に関わるなかで親しくなった朝鮮人「慰安婦」は、次のように語りました。

「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かされた。…軍曹殿、皆大声で笑ったり、噪いだりしているけれど、心では泣いているんです。死のうと思ったことも何度もあるんです。…」

また、暴力的な拉致がなかったわけではありません。朴玉仙さんの証言では、日本人男性2人に捕まえられ中国と旧ソ連の国境地帯・穆稜の慰安所に送り込まれました。それ以外には、女子勤労挺身隊として日本の不二越(富山県)に入れられたが逃亡して日本軍に捕まり「慰安婦」にさせられた姜徳景さん、飲み屋に売られた時に朝鮮人男性二名に捕まり中国の延吉にある航空部隊の東飛行場に連れて行かれた李玉善さんなどのケースがあります(※6)。また、植民地台湾や朝鮮には日本が公娼制度(Q1参照)を持ち込んでいたので、その下で売春をした女性から「慰安婦」になったケースも推測されます。

以上から、大部分の朝鮮人女性の大部分は”本人の意思に反して”「慰安婦」にされたことがわかります。日本政府も「河野談話」(Q4参照)を通じて、「…朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理下等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と連行における強制性をはっきりと認めています。また、業者の募集行為も「国家を代理して行ったものであれば、国際法上は国家の行為」になる(女性国際戦犯法廷ハーグ最終判決)ことを見逃してはなりません。

<日本国内の場合>
日本から日本人女性を送る場合は、原則的に21歳以上の売春女性のなかから集められました。婦人・児童の売買を禁止した国際条約に日本が加盟していたためです(植民地は適用外)。具体的には、公文書などから次のケースが明らかになっています。中国にある慰安所設置のため陸軍から内務省警保局(全国の警察の元締め)に「慰安婦」集めと中国への送り出しの依頼をおこない、内務省が大阪などの5府県に割り当て業者を選定し、女性4百名を集めさせたということです。このことは極秘扱いにされただけでなく、そのことを「経営者の自発的希望に基」づくものであるかのようにみせかけるよう指示まで出していました(※7)。

また、軍や警察も日本国内で女性集めをする場合は、人身売買や略取誘拐などの問題がないように指示しました(植民地や占領地ではそうした指示を出した形跡がないので、差別的に扱っていたことがわかります)。なお、未成年のケースや、だまされて「慰安婦」になったケースもありました。

<中国・東南アジアなどの場合>
日本軍が自ら地元の女性集めをした例が多かったのですが、次のようなケースが明らかになっています。(1)現地軍が憲兵の協力を得たり、村長など地元の有力者に命じて女性を割り当て集めさせたケースがあります。この場合、軍に逆らえないので強制になります。(2)暴力的な拉致です。「討伐」に行った各部隊が女性たちを捕まえて、むりやり連行して強かんしたり、監禁して「慰安婦」にしたケースです。とりわけ中国やフィリピンなどの抗日的とみなした地域で、日本軍はしばしば「粛清」の名のもとに住民虐殺や残虐行為を行い、女性に対してこうした暴力的な拉致による性暴力行為を行いました。フィリピン人元「慰安婦」のルフィーナ・フェルナンデスさんは、抗日ゲリラの容疑をかけられた父親と家族が目の前で日本兵に殺害されたあと、車で連行され、数ヶ月間監禁されて強かんされ続けました(※8)。(3)インドネシアにある日本軍の民間抑留所に入れられたオランダ人女性は、強制的に慰安所に送られ「慰安婦」にされました。戦後に(3)のうちスマラン慰安所事件は、オランダによるBC級戦犯裁判で裁かれて、関係者11名(将校7人、軍属の慰安所経営者4人)は有罪になりました(※9)。

日本軍が侵略・占領した中国や東南アジアは戦場であったので、そこでは日本軍の暴力性がよりあらわになったといえるでしょう。

このように、「慰安婦」にするための女性集めや連行には、日本軍が自ら行うなど密接にかかわりました。また外務省、内務省、各地の警察、台湾総督府、朝鮮総督府その他の国家機関も直接・間接にかかわりました。

(注)
※1 関東軍とは、中国東北に駐屯した日本陸軍のこと。
※2 千田夏光『従軍慰安婦<正編>』(三一新書)、1978年、102-105頁。
※3 同前書を読んだ村上貞夫が千田夏光氏に送った手紙にその経緯が書かれている。千田氏の好意により、VAWW-NET ジャパン編『「慰安婦」・戦時性暴力の実態 1』(2000年、緑風出版)に原文掲載。なお、慰安婦配置表も存在したが、敗戦の時に処分したという。
※4 台湾総督府の手を通じ台湾から約三百名の渡航が手配済みとの記載がある。1997年12月に警察大学校で発見された公文書「支那渡航婦女に関する件」など、1938年11月4日・8日付け。(石出法太ほか著『「日本軍慰安婦」をどう教えるか』梨の木舎、1997年、120-121頁、所収より重引)
※6 土金冨之助『シンガポールへの道 下』創芸社、1977年(石出法太ほか同上書より重引)
※5 これら朝鮮人「慰安婦」の証言は、アクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編集『証言 未来への記憶―アジア「慰安婦」証言集〈1〉南・北・在日コリア編〈上〉』明石書店、2006年、参照。〈下〉も近日発売予定。
※7 出典は※4に同じ。
※8 石出法太ほか前掲書、144-145頁。
※9 吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、175-192頁。

Q7.被害女性たちは何を求めているのですか?

1991年8月、韓国ではじめて実名で名乗りをあげた金学順さんは、責任を認めない日本政府の発言を聞いて怒りを感じ「慰安婦にされた私がここにいる」と後世に伝えるために証言を決意したと、語っています。彼女は同年12月に来日して、ほかの被害者とともに日本政府を相手に「補償」を求めて東京地裁に提訴しました。それ以後今日まで、韓国人、在日韓国人、フィリピン人、台湾人、中国人、オランダ人などの元「慰安婦」制度被害者や性暴力被害者たちが、日本政府に対してそれぞれ「謝罪と補償」を求めて提訴しました。しかし日本の裁判所は事実認定をせず、また事実認定をしても被害者の「謝罪と補償」の要求を退けつづけました。

こうしたことから、被害者が正義を求めているのに国家が裁かないなら、民衆に裁く権利と責任があるとして、2000年12月には東京で加害国日本と被害国の女性や市民の協力で民衆法廷「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が開かれ、8カ国から64人の被害者が参加しました。法廷は、刑事裁判の形式で、「慰安婦」制度の犯罪性と責任を国際法に基づいて、提出されや膨大な公文書類や被害者・加害者の証言などによって明らかにするために開かれたものです。「天皇有罪、日本国家に責任」という判決を聞いて、被害女性たちは喜びの表情をみせました。「この10年間で求め続けた正義が女性国際戦犯法廷で初めて得られました。今は顔をあげて堂々と生きることができます」と語ったのは、フィリピンの被害者トマサ・サリノグさんでした。

韓国で被害者を支援し「慰安婦」問題の解決を求めて運動している韓国挺身隊問題対策協議会(1990年11月結成)は、日本政府に対して次のような7項目の要求をしています。
(1)日本軍「慰安婦」の法的認定、
(2)真相究明、
(3)国会決議謝罪、
(4)法的賠償、
(5)歴史教科書への記録、
(6)慰霊碑と資料館の建設、
(7)責任者の処罰、
です。(公式ホームページより)。

毎週水曜日にソウルにある日本大使館前で行われる「水曜デモ」には、被害者と支援者・支援団体が参加して、以上の要求をしてきました。この水曜デモは、1992年1月から現在まで15年以上も続いています(休んだのは1995年1月の阪神淡路大震災のときだけです)。

以上から、日本政府が「慰安婦」制度への法的責任を認めた上で、謝罪とその証しとしての個人補償する――これこそが、被害女性が日本政府に切実に求めていることではないでしょうか。「慰安婦」にされたために戦時中も戦後も今日まで貶められ続けた女性たちの尊厳の回復のためには、これらはその入り口となるでしょう。そのうえで、歴史の教科書に記載し、資料館や慰霊碑を建設することなどを通じて、同じ過ちを二度と繰り返さないために”歴史の記憶”として刻むことを望んでいるといっていいでしょう。

確かに日本政府は、この問題が浮上して日本軍の関与を立証する軍公文書発見が報道されて以降、日本政府として軍関与を認め言葉のうえで謝罪しました。「慰安婦」問題への「お詫びと反省」を表した1993年の「河野談話」(Q4参照)では、「歴史の真実を回避することなく、歴史の教訓として直視していきたい。……歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意」を表明しました。これらは画期的な前進でした。日本社会は、「慰安婦」問題を通じて、過去の日本が行った加害の記憶(植民地支配、侵略戦争)に向かい合うことになったからです。「植民地支配と侵略」を謝罪した1995年の村山首相「戦後50周年談話」は、その表れです。

しかしながら、その謝罪は個人補償という形で実行に移されていません。1995年には日本政府によって「女性のためのアジア平和基金」(国民基金)がはじまりましたが、これは日本国民から募金を集めて被害者に支給するもので、日本国家による補償ではないとして、被害者から多くの反発をよびました。日本政府は、1952年いこう現在まで日本人元軍人・軍属とその遺族などに対しては国家による個人補償を手厚くしているのですから、日本国家が「慰安婦」制度への責任を認め謝罪つもりがあるなら、日本政府が自ら「慰安婦」制度被害者に補償するのが筋ではないでしょうか。

また「歴史教育を通じて記憶にとどめる」(「河野談話」)等によって、1994年度から高校教科書に、1997年度版から中学校の歴史教科書にこの事実が記載されるようになったのも画期的なことでした。しかし1990年代後半から「慰安婦はいなかった」などと否定する勢力が勢いを増していき、彼らの有力政治家を巻き込んでの猛烈なキャンペーンによって、2002年度版は大幅に記述が後退し、2006年度版にはほとんどの教科書から「慰安婦」に関する記載が消えました。残念ながら、こうしたことが被害女性たちの日本政府や日本社会に対する不信感を生んでいると言ってよいでしょう。

現在、1990年代に被害を名乗り出た女性たちの訃報が、各国からあいついでいます。また70歳台、80歳台になり、高齢化してきました。せめて生きている間に、彼女たちの望む日本政府自らによる「謝罪とその証しである補償」を実現するのが、加害の国日本に住む私たちの課題ではないでしょうか。