出典種別 | 被害証言 |
---|---|
現在の地域情報 | 地名特定不可能 |
資料にある地域情報 | 台湾 ダイチ駅から車でキクサイロ空軍 |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 17歳のとき、慶尚南道晋州郡ムンサンケファ洞の区長から日本に送ってやると言われて、1943年5月2日、釜山港から下関へ向かう船に乗った。そこには15~17歳の娘が50人ほどいた。・・・数日後到着したところは台湾で、私たちはキルという看板をかけた旅館に連れ込まれた。そこで私たち20人が選ばれ、ダイチ駅から車でキクサイロ空軍兵営に連れて行かれた。兵営にはキクサイロ遊廓という看板がかかっていた。「慰安所」は平屋であったが、部屋の大きさは8㎡ぐらいであった。ベッド1台、毛布1枚、枕2つとコップがあった。私は8号室に入れられた。日に平均5~6人、ときには10人の日本軍飛行士の相手をさせられた。「慰安所」は日本人山本おしかが経営し、その下に5人の管理人がいた。管理人が1時間当たり2円(日貨)を受け取って責任者に渡すのを見たおぼえはあるが、「慰安婦」たちにお金が支払われたことは1度もなかった。・・・逃げ出した娘は捕らえられ例外なく殺された。一緒にいた帳順伊という朝鮮娘が耐えきれずに逃げ出して、日本軍に捕まり、惨めになぐり殺されるのを目撃した。 |
証言者 | 朴福伊 |
証言者属性 | 朝鮮人被害者 |
部隊名 | キクサイロ空軍 |
資料タイトル | 踏みにじられた人生の絶叫 |
著者、公文書発信者など | 「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1995 |
発行所 | 「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会 |
ページ | 15-16 |
出典備考 | |
備考 |