出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | ネピードー連邦領 デッキーナ県 ヤウミン郡区 |
資料にある地域情報 | インブー |
慰安所があった時期 | 未記載 |
記載内容 | 間もなく、渡辺隊の残置隊のいる、インブー部落、ここは右曲りをすればピンマナであり、マンダレー街道に沿った、樹木鬱蒼の場所で、敵機からも発見が出来ない。・・・ここに移り住むことにした。・・・ 話が前後するが、渡辺愛三郎部隊長の在任当時、慰安所設営の提案があり、その万端準備中、内地帰還命令が出たが、後任部隊長、大築軍医、須藤准尉等で、開設方促進があり、須藤准尉は、一切を私に任せる、というので、私はモンフラヂーに、現地女の募集を頼んだ。こゝで、後任部隊長はインドウ地区から隊員と共に、帰還していた事を書き添える。 慰安所施設は、医務室の石渡衛生曹長、大築軍医の御指示により、万端整った。問題は女共である。モンフラヂーが、女共、金になるんだ位の話しで、果たして集まるかどうか、心配していたら、4,5日して、候補者をひとりひとり連れて来た、結局の処、4人揃った。一応、須藤准尉、石渡曹長立会の上、慰安所なるものの話しをせねばならない。モンフラヂーが通訳と云っても、私の説得が良く通ずるかどうか。兵隊達のために、彼女達が公物化することを承知するかどうか。 しかし、程度の低い彼女達であるから、どうやら承知のコックリをしたので、医務室での検査を、石渡マスターに依頼して、いよいよ開設が出来た。 この慰安所は、ヤオミンの任務を、34飛大に申送る事となったので、2・3ヶ月で解散したと記憶する。34飛大では、広東の娘子軍がついていた。私もこれに協力して、彼女達の稼ぎ場所を設営し、両部隊で使用してよろしい。との許可を貰った。 部隊本部は、インブーから更らに西3粁の、ヤオミン部落へ移動した。 |
証言者 | 中武三 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 航空戦の蔭に |
著者、公文書発信者など | 第五飛行師団経理官の集い(五経会) |
公文書宛先 | |
発行日 | 1968.3.1 |
発行所 | 五経会 |
ページ | 328-329 |
出典備考 | 中武三「F12 インブーヤオミンの木影」 |
備考 | 注:当時はピンマナ県レウェ郡。/PYINMANAピンマナ25万分の1の地図にPYINMANAから分岐する鉄道(BURMA RYS)が設置され、南西にLewe駅がある。この鉄路の西側がYANAUNGMYIN R Fである。R F不明だが、ヤオミンであろう。現在の地図の同所付近を検索すると、Yanaungmyinがある。 |