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資料の詳細

出典種別 被害証言
現在の地域情報シャン州 ラーショー県 ラーショー郡区
資料にある地域情報ラシオ
慰安所があった時期1942年
記載内容母の死後、私は6つの年で地主の家の子守になり、15歳になるまで下女奉公をさせられた。私は逃げ出そうとして、地主に飲み屋に売り渡され、それ以来あちらこちらへ売られるようになった。沙里院、南浦をへて平壌に着いたのは1941年末のことで、市街では日本人が人夫の募集をしていた。かれらは娘たちだけに言い寄り、「今皇軍はアジアの盟主として勝ちどきをあげている。金になる仕事がある」と言い、おいしいものを食べ、きれいな着物を着てお金もたっぷり儲かるところを紹介してやると誘うのだった。そして連れて行かれたのは「労働案内所」という看板のかかったところであった。大勢の少女が「募集」されて来ていた。私はそこに1か月ほどいてから、各地から連れてこられた娘たちと一緒に、武装した日本人警官の護送を受けて平壌駅から釜山に向かった。釜山には全国各地から集められた数千人の朝鮮女性がいたが、年齢はみな20前後であった。10日余りして私はかね子という日本名をつけられ、日本兵と戦車、大砲を満載した軍艦に乗せられた。7隻の軍艦に数千人の娘たち全員が乗せられたが、私は日本本土で看護婦にでもならされるのだろうとあまく考えていた。釜山港を離れた軍艦は40余日後、シンガポールに錨を下した。朝鮮女性は数百台のトラックに乗せられ、日本軍兵営のあるところに10人ずつおろされた。私は8人の娘と一緒にラシオという深い山奥に連れて行かれた。そこには軒の低い平屋があった。各部屋はアンペラで仕切られ、廊下には竹が敷いてあった。部屋には低いベッドが置かれていた。・・・4年の歳月がこうして流れた。・・・一緒に連行された9人のうち6人が死に、3人が生き残ったのである。私たちは日本軍敗残兵と一緒に捕虜になり、1年6か月間捕虜収容所に入れられた。日本軍にそれほど苦しめられたうえ、またかれらと一緒に捕虜生活をしなければならなくなったと思うと、悔しくて悔しくて物も言えないほどだった。
証言者尹慶愛
証言者属性朝鮮人被害者
部隊名
資料タイトル踏みにじられた人生の絶叫
著者、公文書発信者など「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
公文書宛先
発行日1995
発行所「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会
ページ5-7
出典備考
備考 アジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図に「ラシオ」がある。マンダレーの北東、中国への幹線道路の途中にある。現在の地図の同所もラシオLashioである。
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