記載内容 | 農家が点在する千葉県茂原の田園地帯に、忽然と7軒の慰安所が建てられたのは1944年秋である。大吉楼の主も軍の要請を受け、出店した。建物は、日頃船橋の店に出入りしていた大工が建てた。主と大工との間であらかじめ謀議されていたのだろう。建築違反で大工は実刑を受けた。が、すでに建ちあがった建物はとり壊されることもなく、開業された。それまで船橋で小間使いとして働いていたタミは、慰安所開設と同時に茂原に連れて行かれた。数え17歳、それ以前、すでに主に犯されていた。・・・7軒の慰安所はそれぞれ名前がついていた。タミのいたところは、大吉楼と、船橋の店の名をそのまま使った。道を挟んで大吉楼の側に4軒、向かいに3軒、東京にある遊廓洲崎から来た業者が多かった。大吉楼以外はいずれももとの店はたたんで来た。それぞれの慰安所に、6,7人ぐらいずつタミと同じ年ぐらいの若い娘ばかりが集められた。どんな事情があってか、大吉楼に20歳を過ぎた姉妹が2人揃って来ていたが、タミたちにはその2人が例外的な年長者に感じられたくらいだ。7軒の慰安所の娘たちの多くが、茂原に来るまでは売春体験いや性体験もなかった娘たちだった。性病検査は町の医院で行なわれた。罹患者が出た場合には、即刻軍に、罹患者の所属する慰安所名と源氏名とが伝達された。時折遊びに来た兵隊が、〇〇楼の××は要注意だ、などと騒いでいるのを聞いた。開設当初は慰安所には1人の罹患者はいなかったのだから、結局、軍人に性病を移されたのである。料金は軍によって指定されたが、遊廓に比べるとだいぶ安かった。安い料金で業者が応じたのは、税金を低く押えるか免税するなど、なんらかの措置がとられたのだろうとタミは感じた。 |