出典種別 | 被害証言 |
---|---|
現在の地域情報 | 沖縄県 島尻郡 渡嘉敷村 字渡嘉敷 |
資料にある地域情報 | 仲村渠家(慰安所とされた)その後赤瓦の家へ |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | ポンギさんらは最初、茅葺きの小さな民家に入れられた。―渡嘉敷に着いて、商売しない前は小こい茅葺き家におってね、ごはんは兵隊がバケツに入れてたくさん持ってくる。「あんたたち可愛いから、めしをたくさん持って来たよ」って。7名でも全部食べられんほど、たくさんあったよ。娯楽施設の何ひとつない島への女たち7人の到来は、日本軍将兵にたいへん歓迎された。慰安所開設の準備は井上伍長の指揮のもと、大工や左官出身の兵隊らによって急遽行われた。民家が軍の接収によって業者に提供させられ、慰安所に改造されたのである。慰安所とされたのは、ナカマジョウの屋号で呼ばれていた仲村渠家である。母屋が22坪、家畜兼農具小屋が15坪。台所と食堂の他に4部屋あった母屋をベニア板で6部屋に区切り、家畜兼農具小屋にも1部屋設け、7人の女たちの部屋にした。・・・ ポンギさんらが小さな茅葺き家にいたのは何日でもない。間もなく、渡嘉敷島港の近くの大きな赤瓦の家に移された。慰安所として改造されたその家の前には川があった。・・・川岸では、アダンが刺々しく細い葉を突き出し、根を執拗にはびこらせていた。そして対岸には小高い山があり、赤瓦の家からの視界を遮っていた。仲村渠家では軍からの命令されて、その山の麓に慰安所の女たちのための避難壕を掘った。仲村渠家の隣の新里家は、慰安所に遊びに来る兵隊たちの待合室に指定された。その家の主婦好枝さんは、7人の女たちの食事の賄いも命じられた。(慰安所の炊事係は、後に、沖縄本島山原出身の女性に替えられる) ポンギさんは、赤瓦の家では”アキコ”の源氏名で呼ばれた。他の6人の渡嘉敷での名はキクマル、ハルコ、スズラン、カズコ、ミッちゃん、アイコである。この時、ポンギさんは満30歳。7人の中では最年長であった。 |
証言者 | 裴奉奇 |
証言者属性 | 朝鮮人被害者 |
部隊名 | 沖縄第32軍海上挺進戦隊第3戦隊 |
資料タイトル | 赤瓦の家 |
著者、公文書発信者など | 川田文子 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1994.1.24 |
発行所 | 筑摩書房 |
ページ | 71-73 |
出典備考 | 本資料はちくま文庫版である。単行本は1987.2.27筑摩書房刊 |
備考 | 渡嘉敷島は那覇市の西方にある。渡嘉敷島の北ほぼ半分が渡嘉敷で、南が阿波連である。最初に慰安所とされた仲村渠家、その後移された渡嘉敷港付近の赤瓦の家も渡嘉敷である。 |