出典種別 | 目撃証言 |
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現在の地域情報 | 沖縄県 那覇市 泊 |
資料にある地域情報 | 中之橋付近の仲本精神科病院 |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 那覇市泊北岸にあった避(隔離)病院にも、病棟を利用して朝鮮人慰安婦が住んでいた。ここには2~3人の子連れの慰安婦が多かった。当時、小学校3年生だった山田義徳さんの家は泊高橋にあって、十・十空襲でも焼けなかった。風呂屋だったので、慰安婦たちがいつも一番湯を入りに来ていた。午前11時の入浴であった。・・・慰安所からコンドームを手に入れて、子供たちはめずらしそうに口にくわえて、息を吹きこんで「プーカー(風船)」にして遊んだ。コンドームはいい遊び道具であった。慰安所には泊国民学校に駐屯していた球部隊の兵隊たちが出入りしていた。夕方から夜通し、夜明けまで、兵隊たちが次々と通っていた。一晩に何百名もの兵隊を、台ノ瀬病院にいる30名の朝鮮人慰安婦がこなしていた。 中之橋では、仲本精神科病院に住んでいた10人の慰安婦が、朝鮮兵も含めて兵隊の相手をしていた。彼女らは決して個人行動をしなかったが、色の黒い南の島の沖縄人から見ると、雪国育ちの彼女たちは、色の白い美しい姉さんに映った。 |
証言者 | 山田義徳 |
証言者属性 | 現地住民・小学3年生 |
部隊名 | |
資料タイトル | オキナワ戦の女たち-朝鮮人従軍慰安婦 |
著者、公文書発信者など | 福地曠昭 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1992.8.30 |
発行所 | 海風社 |
ページ | 120-121 |
出典備考 | |
備考 | 現在の地図の那覇市の泊港の北岸が泊であり、証言の泊北岸である。旧那覇市プラットフォームの地図(1935年頃)によると、泊港及び安里川の北岸は、海沿いが高橋町で内陸が崇元而町であった。この崇元而町にかかっている橋が「中之橋」である。これだけでは仲本精神科病院が崇元而町にあったか、それとも対岸にあったかはわからないが、古賀徳子「沖縄戦における日本軍「慰安婦」制度の展開(3)」(『季刊戦争責任研究』第62号)には「崇元寺町でも、中之橋にあった仲本医院が使用された」とあり、仲本精神科病院は崇元寺町にあったようだ。この崇元寺町も現在の行政区画では「泊」となっている。 |