出典種別 | 被害証言 |
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現在の地域情報 | 沖縄県 那覇市 字上間 |
資料にある地域情報 | 識名庭園近くに陣取った上間村 |
慰安所があった時期 | 1944年10月 |
記載内容 | その人に会いたい気持ちを秘めて、中将閣下に申し出ましたら、いつ死ぬかも知れない武士の情けとでもいいましょうか、中将閣下とともにトラックへ乗せられた私たちは、南西諸島最高司令官第32軍の本部へ連れて行かれたのです。初めて知る戦争、那覇の大空襲に、身も世もなく震えている姐たちを見た牛島閣下は、「兵隊さんたちと一緒に陣地構築の手伝いをしていれば、そのうちに戦争は終わるよ」と、まるで父親のような愛情で、やさしい言葉をかけてくださったのです。これに力づけられた抱親様以下10数名、従軍看護婦という名目を授けられた私たちは、先着の若藤楼の姐たちを残して、真和志村字識名、その昔琉球王所有の識名園近くに陣取った上間村の給水部隊へ配置されたのです。・・・何の才覚もない姐たちが、上間村集会場へ住むことができ、その上、給水部隊から食料を運んでもらえたので、本当に「兵隊さんありがとう」といった気持でした。そして、そこには〇〇部隊慰安所という名称がついたのです。 |
証言者 | 上原栄子 |
証言者属性 | 沖縄人被害者 |
部隊名 | 第27野戦防疫給水部(球5753) |
資料タイトル | 辻の華 戦後編(上) |
著者、公文書発信者など | 上原栄子 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1989.4.25 |
発行所 | 時事通信社 |
ページ | 6-7 |
出典備考 | |
備考 | 古賀徳子「沖縄戦における日本軍「慰安婦」制度の展開(3)」(『季刊戦争責任研究』第62号)には「字上間の慰安所は集落の事務所(注:ムラヤー)を利用して開設された。第27野戦防疫給水部(部隊長藤井軍医中佐)は、衛生兵と輜重兵で編成され、病原菌検査を行う防疫部と各部隊に飲料水を供給する給水部からなる。この慰安所にいたのは、辻を焼け出された上原栄子ら料亭「松の下」のジュリ20人である」とある。識名園の南西に隣接して上間がある。上間村集会場(ムラヤー)の位置はa-4410を参照のこと。 |