記載内容 | 学校も上級生は勤労動員され生徒も半数以下と淋しく、いずれ2人の動員も近いと思われた或る日の新聞に慰安婦急募の広告で兵隊さんへの慰問を呼びかける記事が目に入った。・・・新聞片方に指定された旅館の一室で面接、応募者の中には煌やかな着物姿の人や年配の人の多い中で2人の女学生の姿は目立ったが面接で採用と告げられ、入学試験に合格した様に2人は喜び合った。・・・1人は、京阪三条から6つか7つめの駅と教えられ、他の1人は京都駅に行き奈良線の2つめかの駅で降りる様にと教わった。1人は京阪電車の稲荷で降りると既に係員と採用された色とりどりの女の人が居た。友達は待てど姿がなかった。・・・稲荷駅は京阪と国鉄の2つある等考えても見ず、夫々が教えられた2つの違った乗り物を利用した為こんな結果になる等毛頭考えも疑いも持たずに。・・・弟さんから伺った話では、姉は昭和18年ごろ、私たちの疎開中に突然行方不明となり、八方所在を捜しましたが何分戦時中とて、それ以上探し様もない儘で終戦の翌年秋、海外より引揚げて参りましたが、身も心もボロボロの半病人でやっと帰宅しました。今まで何処に何をと尋ねても多くを語らず、少しずつ聞いたところでは満州に居たと。兵隊さんの慰問にと参加したのが騙されたと気付きましたが当時の娘には慰安と慰問の差など知る由もなく逃げられも出来ず中国の戦場に1年余、次いで満州へ渡りました。・・・ソ連軍の侵入で頼む軍隊は撤退し、あとに残った女や子供老人の避難民に混じって逃げ廻る或る日、ソ連兵が女を出せ無理に娘さんを連れ去ろうとしたのを見兼ねて私が相手にと出かけましたが、戻ってみると皆から感謝されるどころか、冷たい貶みの眼で見られ耐えられない或る日、引揚げが始まり半病人でやっと故郷に辿り着きました。 |