記載内容 | 私が14歳の年の6月のある日、野良で働く両親の昼食をつくるため水を汲みに井戸端へ行ったところ、日本軍守備隊に捕まって恵山の兵営に連れていかれました。守備隊兵営のある部屋に入れられてみると、私と同じ年頃の娘が何人かいた。私たちはこうして日本軍守備隊の性奴隷にされた。反抗する娘は残忍に殺された。・・・部隊が中国の西南方へ移動するさいにも私たちはみな連れて行かれた。人家がない山中の日本軍駐屯地で受けた仕打ちは、前にもましてひどかった。かれらはちょっとしたことで、「朝鮮人のあまを殺すのは犬ころを殺すより楽だ。不平を言うやつは死ね」と言って蹴ったり棒でなぐったり、軍刀で刺したりした。・・・日本軍は中国の広州に移動するときも私たちを連れて行った。・・・私は17歳のとき、菊海、春子、八順ら何人かの娘たちと一緒にある夜明けを選んで脱走した。けれども2日後にみな捕まってしまった。日本兵は私たちを最初別々に閉じ込め、誰が逃げようと言い出したのか白状しろと迫り、みな口をつぐんでいると、恐ろしい拷問を加えた。私は鉄棒でなぐられ、倒れると頭をめった打ちにされた。顔に血が流れ落ちても、殴打は続いた。50年後の今も、頭には無数の傷跡が残っている。この日、私は片目を失った。 |