記載内容 | この下士官(曹長)も、我々と同じ様に矢張り高雄から乗り込んで来たとのことで、高雄の盛り場ことなどなかなかよく知っている。そんな四方山話しの末、チョイとこの船のことについて尋ねて見ると、下士官が船の前方中央の大きく口を開けた貨物揚降しのハッチの方を顎で指す。私は教えられたそのハッチを覗いて見て驚いた。薄暗い船倉の中からムッとする熱気と女の体臭、酒、そしてモウモウたる煙草の煙が入り交じって鼻をついた。中央は丁度ハッチの真下なのでやや明るい。両舷側と奥の方はカイコ棚のようになっており、そこにはザット2百名近い女達が一杯になって、船に酔ったのかごろごろ皆寝ころんでいる。私が覗き込んだ丁度中央の少し広場になった明るいところでは、3,4組の女達が立て膝で、或いは腹ばって、くわえ煙草で花札を引いている最中だった。私はわざと平静を装いながら下士官の方を見ると、ニヤリとして「判ったろう」というような顔をした。そしてその時、この船の目的がピンと来た。勿論もう下士官の説明を待つまでもない。南方各戦地へ送られる慰安所勤務の従軍婦であることが判った。・・・船は5月7日に陥落したばかりの生々しい傷跡を見せているコレヒドール島の側をすり抜け、浮遊機雷、あるいは湾内いたる所に見える沈没船の間を、航路標識の赤旗ブイを便りにマニラ湾へ入港、埠頭の見える位置に仮泊した。・・・それにしてもあの船倉にいた慰安婦達、あれから前線各地へ分散され、過酷な条件の中で、終戦まで生き永らえて、帰国できた者が何人あったであろうか、これも悲しい思い出の運命の一齣である。 |