出典種別 | 兵士の回想録等
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現在の地域情報 | マンダレー管区 メイッティーラ県 メイッティーラ郡区 |
資料にある地域情報 | メークテーラー |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | ビルマで大きな慰安所は、モールメン、トングー、ピンマナ、メークテーラ、マンダレー、ラングーンにありました。比率は朝鮮人慰安婦10、ビルマ人慰安婦4、中国人慰安婦と印度人慰安婦は2、日本人慰安婦は0.8ぐらいの割りでなかったかと思います。日本人慰安婦はここでも将校用でした。まず朝鮮人、日本人の慰安婦が進出し、半年ほどの間に中国人、ビルマ人、印度人の女が集められ慰安婦にさせられたのでした。もっとも、朝鮮人、日本人の慰安婦たちが、部隊と一緒にタイとの国境を山越えしてやってきたのか、その後、つまり占領後だったのかはよく知りません。各部隊では、多いところで、1ヵ所の慰安所に20人ぐらい、普通は10人ぐらい女がいました。女はみな20歳前後で、気分的にはよかったですね。インドピーは、あのすその長いロンジーを着ていました。兵隊は日曜の外出で慰安所に行くんですが、原則としてサックを使うんです。サックは申し出ると支給されました。もちろん、タダでした。・・・払った金は確か、2円か、3円だったと思うな。軍票でね。ルピーでした。慰安所の建物はバンガロー風で、現地の古い建物でした。イギリス人あたりが使っていたのを慰安所にしたということでした。 |
証言者 | 堀江寿夫 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | 長谷川特殊自動車隊 |
資料タイトル | 従軍慰安婦〈正編〉 |
著者、公文書発信者など | 千田夏光 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1978.9.30 |
発行所 | 三一書房 |
ページ | 174 |
出典備考 | |
備考 |
アジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図に「メイティラ」がある。ビルマ鉄道が交差するサジの西である。現在の地図の同所はメイティーラーMeikhtilaである。ネピドーとマンダレーの中間付近に当たる。
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