出典種別 | 兵士の回想録等
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現在の地域情報 | マンダレー管区 ピンウールウィン県 ピンウールウィン郡区 |
資料にある地域情報 | メイミョ |
慰安所があった時期 | 1944年10月 |
記載内容 | 昭和19年10月頃、軍司令部は留守司令部のあるシャン高原の、メイミョウに移りました。・・・ここには「清明荘」の他に3軒の慰安婦が私を待っておりました。朝鮮人慰安所が2軒、広東人慰安所が1軒、計4軒、慰安婦約2百名が、私の管理下に入ったわけです。戦闘指令所と言うのは、戦闘に必要な最小限の人員だけで、前線近くで指揮をとる所ですが、軍司令部となると、司令部機構の全部だけでなく、これに直轄される通信、運輸、病院などがその周囲に集まりますから、総員1万近くにふくれ上るのです。従って、私は慰安所の使用区分を、1日兵千名を基準に各隊毎に外出日を違えて、兵は朝点呼後から午後5時まで、下士官は午後5時から9時まで、将校は9時以降明朝までといたしました。これですと1日千名の兵が外出し、全員が慰安所に行ったとしても、慰安婦は約150人(『清明荘』を除く)いますから、1人平均6名程度を相手にすればよいわけです。私もよく昼間、慰安所を見廻りましたが、延々長蛇の列などという表現の状態には、一度もお目にかかかったことはありません。むしろ閑散としていた記憶があります。『清明荘』の方はどうかと言うと、昼間は殆ど何もしない。夜は殆ど宴会出席、その後定められた男と寝る、というスケジュールで、この点からも日本人だけは特に優遇されていました。 |
証言者 | 神谷重雄 |
証言者属性 | 陸軍中尉 ジャワで現地人軍隊教官 |
部隊名 | 出身原隊静岡歩兵34連隊。ビルマで15軍司令部。第33師団司令部。 |
資料タイトル | 従軍慰安婦〈続編〉 |
著者、公文書発信者など | 千田夏光 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1978.9.30 |
発行所 | 三一書房 |
ページ | 74-75 |
出典備考 | |
備考 |
現在の地図のマンダレー東方にメイミョーMaymyoがある。ピンウールウィンPyin Oo Lwinとも呼ばれている。ちなみにアジア歴史資料センター:C141060191800のビルマ50万分の1の地図では「マイミヨ」とある。日本軍はメイミョウ、明妙などと呼んでいた。
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