記載内容 | 給料袋と一緒に“突撃一番”を2個支給された。経理下士官に、「あの家の前で並んでおれ」といわれ、命令だと思い、指定された大きな家の前へ行き、すでに並んでいる兵隊の列の最後尾についた。私の列には30名以上いた。30分ほどしてから、周囲の話ぶりから慰安所とわかり、そうした体験のあまりない私は迷った。それにしても“突撃一番”までくれるとは親切なことだ。並んでいる兵隊たちの話を聞いているうちに、私は腹を決めた。明日の命も知れぬ戦場だ。話に聞いた慰安所を後学のために知っておこう。せっかくの上官の思いやりだ……。1人の所要時間、2分30秒……。女が朝鮮の出身とわかったので、「おれたちも朝鮮から来たんだ。表で待っている。仕事が終わったら朝鮮の話をしよう」といって、夜半まで待っていた。やがて1日の“営業”を終えた女が出て来た。彼女の身の上話を聞いて私は驚いた。女は最初、特志看護婦だった。しかし、ビルマに入国してから病院には1日も勤務することなく、高級将校の相手をさせられ、月日とともにだんだん下に落とされ、今は1日に数十人の兵隊の相手をさせられている。今日は120人余りの相手をさせられた、という。私は義憤と同情を覚え、朝鮮の様子などを語ってきかせ、1日も早く帰国するように勧めた。「お金が沢山できれば朝鮮に帰れます。でも、それがなかなか……」女は口ごもった。私はますます同情した。そして、ラシオから先には金を使う所もない。慰安所もここが最後だ、という女の言葉を信用して、朝鮮から持って来た朝鮮銀行券(朝鮮通貨)全部と、その日もらった給料の残り全部を女に渡した。そのとき、とてもよいことをしたような満足感に浸っていた。が、ラシオから先には慰安所はないはずなのに、行先には数多くの慰安所があった。見事にしてやられたのである。いや、あるいは軍が女にそう教えて無理な勤めを強制していたのかも知れないが、おかげで私はラシオの街を全然知らない。 |