記載内容 | 防衛庁戦史室編さんの公刊戦史は、丸山大佐の『回想手記』として、撤退の模様をこう記している。『ー丸山大佐は、8月1日、撤退の命令をくだし、同夜(1日)および2日、3日の3夜(満月に近い月明)にわたって渡河を決行することにした。まだ歩ける軽患者と水上少将の旅団司令部とが、1日夜、まず渡河し、丸山大佐は3日夜、最後の部隊とともに渡河した。部隊は河岸にかくされていた小舟を引きだして、2日、3日の両夜、あらかじめ決められた順序に従って乗船して対岸に渡り、逐次ジャングル内に集結した。この間、ミートキーナの市街上空には、いつものように照明弾や曳光弾が打ち上げられていたー』/西島日出夫軍曹は、そのとき人員搭載係として、渡河部隊の誘導にあたっていた。その西島軍曹にいわせると、この回想手記は、丸山大佐の記憶ちがいか、かなり一方的に糊塗されているという。1日夜の渡河は、歩行にたえる患者、連隊副官平井中尉と功績係の将校下士官、それに約20名の慰安婦。(平井副官の当番兵西村上等兵の証言)水上少将と本部。2日目が軍旗と丸山大佐、連隊本部将校団。3日目が各部隊将兵である。しかし、回想手記では、将兵の渡河をみとどけたあと、殿りとなって渡ったようにうけとれるが、丸山大佐は一足おさきに渡り、まだ残余の将兵が渡河点に屯していた。また、同夜は、曇天で月も出ていなかったし、照明弾や曳光弾はみえなかったと主張している。 |