出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 地名特定不可能 |
資料にある地域情報 | ビルマの前線 |
慰安所があった時期 | 1944年 |
記載内容 | 遠く異国の地に出て兵隊の慰安に当ったその数は、数千名の多勢に達していたと思われる。彼女らのことについて、想起される点を摘記すると。 一、昭和19年ころ、内地から輸送された彼女らの集団が遠くビルマの前線に移動中、敵機の銃撃で死亡したものがあった。任務中途の犠牲者であった。当時、私はビルマ中部防衛司令部の功績班に勤務していた。・・・終戦の直前に多くの慰安婦たちは病院の看護婦となり、また、准軍属としてそれぞれなんらかの恩恵をうけるように手続きをされたと聞いている。これらの措置は、軍が彼女たちに示した、思いやりの一端と考える。私が作業した彼女たちの処遇措置は、ビルマ戦線においては比較的早かったものと思われ、我ながらよくやったものだと自負している。 二、昭和20年4月、インパール作戦の失敗以来、総崩れになって後退する兵に混って、慰安婦の一集団があった。たまたま私は破れ寺の中で彼女らと宿営したことがある。雨季に入り陰うつな天気が毎日続いていたが、1日晴れ上った日があった。宿営者のだれもが洗濯物を外に出して乾かした。その中に皆の眼をひいたのは汗がにじみ、汚れた軍票でつくった胴巻のような長い帯であった。彼女等の中には、その軍票の帯を2本、3本と持っていた者がいた。軍票の価値が無くなってしまってもなおそれを手離すこともなく体に巻きつけていたのである。その姿に気の毒な気がしてならなかった。 |
証言者 | 佐藤基 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 椰子の実 私の従軍回想録 |
著者、公文書発信者など | 佐藤基 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1985.8.15 |
発行所 | けやきの街出版 |
ページ | 80-81 |
出典備考 | |
備考 |