出典種別 | 目撃証言 |
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現在の地域情報 | 地名特定不可能 |
資料にある地域情報 | 不明 |
慰安所があった時期 | 1943年 |
記載内容 | そんな時、陸運省から、戦場に行ってくれないかという話が飛び込んできた。町会の役員が、兄の顔色を窺うようにして、戦地で飲食店を開いてほしいというその話を持ってきた。・・・私達は、私と3番目の兄、どうしても一緒に行くと言ってきかない当時55歳の母、東京で募集した3人の女の子とコックが1人、総勢7名のグループだった。・・・私達が働くことになったラシオ市の「つわもの寮」は、九州部隊の竜兵団の池田部隊に管理されていた。・・・いよいよ、戦況は切羽詰まったところまで来た。町は毎日のように敵の空襲にさらされ、破壊されていった。つわもの寮も、ドリアンの大木がなかったら、敵の襲撃の的になっていたことだろう。・・・シッタン河を渡ると、タイとビルマをつなぐ大きな山脈が立ちはだかっている。これを越えなければならない。体中がピリピリした。近くの小さな駅に、兵隊を乗せた貨物車が止まっていた。最後の汽車だという。・・・ガタンと音を立てて貨車が止まり、真っ暗な中で人々のざわめきが聞こえる。乗っていた韓国の女性が産気づいた。「誰か、手伝ってくれ」5人の子を産んだ経験のある母が呼ばれた。・・・やがて、産声が夜の空気を破るように響き、赤子が生まれた。「早く、早く」と言って、母は兵隊達から水筒の水をもらい、赤子にかけてあげた。誰かのブラウスのようなものに包まれて赤子はその母の胸に抱かれた。すぐ貨車は出発した。しかし、山を一つ越えた所で、止まった。・・・めざすバンコクまでは、まだまだ遠い道のりだった。全員、ぞろぞろと線路の上を歩き始めた。・・・赤子を胸にくくりつけて、出産したばかりの女性もがんばってついてくる。 |
証言者 | 柴田ユキ |
証言者属性 | 飲食店経営のために家族でビルマへ |
部隊名 | |
資料タイトル | シャン高原に花咲いて あの戦争から始まり、海を越えた出会い |
著者、公文書発信者など | 柴田ユキ |
公文書宛先 | |
発行日 | 2007.8.5 |
発行所 | 新風舎 |
ページ | 8-10、20、27-30 |
出典備考 | ビルマからタイへ撤退。「韓国の女性が産気づいた」との記述。「慰安婦」との明言はなく、慰安所の場所など不明。 |
備考 |
ビルマからタイへ撤退。「韓国の女性が産気づいた」との記述。「慰安婦」との明言はなく、慰安所の場所など不明。 ※日本軍慰安所マップの地点としては反映させていない。
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