出典種別 | その他 |
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現在の地域情報 | 沖縄県 国頭郡 今帰仁村 字仲宗根 |
資料にある地域情報 | 仲宗根 |
慰安所があった時期 | 未記載 |
記載内容 | 私達を壕から出し、食い物を与えた海兵隊は南部に向け今帰仁を去っていった。その後に別の部隊がやってきたが、その連中は実に柄が悪かった。・・・女性に暴行を加えようとする者が出てきた。・・・幸いにまだ実際に犯されたと言う話は聞かれなかったが、これからどうすれば良いか全く方法を知らず、ただ恐怖におののいていた。丁度その時、仲宗根で「慰安所」を経営していたという人から「アメリカ兵の為の慰安所を開設したらどうだろうか」という案が区長のところに持ち込まれた。「渡りに船」とはまさにこういうことをいうのだろう。区長に異存のある筈はない。早速米軍のキャンプに行き、その旨を申し入れ、即刻OKの返事を貰って帰ってきた。「慰安所」を経営していたという人はこの村の出身で、この空襲が始まる直前まで仲宗根で日本兵相手の商売をしており、幸いにその女性達全員(5,6人)が彼と行動を共にしていた。彼女らにアメリカ兵相手の商売を相談したら、OKが出た。 |
証言者 | 宮里真厚 |
証言者属性 | 地元住民、当時12歳 |
部隊名 | |
資料タイトル | 小国民のたたかい 乙羽岳燃ゆ |
著者、公文書発信者など | 宮里真厚 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1995.5.1 |
発行所 | 私家版 |
ページ | 105 |
出典備考 | 注:沖縄の女性5-6人が「慰安婦」として日本兵の相手をさせられていた。日本軍相手の慰安所は1944年秋から米軍の艦砲射撃が始まる1945年3月23日頃まであった。 |
備考 | 本部半島の東部に今帰仁村があり、大井川河口の東西両岸を挟んで仲宗根がある。 |