出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 沖縄県 南城市 |
資料にある地域情報 | 沖縄の知念 |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 5月20日、防疫部に命令が出た「知念方面に転進し負傷兵を収容すべし」。佐宗武雄軍医中尉を隊長に医官1名、下士官及び兵を合わせて30名。看護婦として慰安婦20名が隊員である。直ちに衛生材料、糧秣を荷造りして出発準備を整えた。・・・悪路を重い荷物を背負っての行軍は実につらい、慰安婦でも30キロ近い荷物を背負っている。・・・夜明け前に知念に着いた。・・・その夜のうちに洞窟は負傷兵でいっぱいになった。2名の軍医では診断に応じきれなくなり、佐宗軍医中尉は「下士官は負傷兵の診断をして、その処置を兵と慰安婦に指示せよ」と命じた。手術の設備はない、傷口に消毒剤をぬり、包帯をまくしかない。骨折は副木(そえぎ)をそえて固定する程度の治療が精いっぱいである。負傷兵が絶え間なく送りこまれてくる。死後の処置、汚物の処理、給食など、慰安婦だけでは手が回らなくなった。負傷兵が洞窟の外にまであふれるようになった。慰安婦の献身的な奉仕には頭がさがる思いであった。・・・ 6月初旬と思われる。誰も日時の記憶など持ち合わせなかった。佐宗武雄軍医中尉は決意をこめて「病院も危険が迫った、病院を閉鎖して日没を期して真壁に転進する。城所曹長は独歩患者を引率して出発せよ」と命令を下した。城所曹長は兵士20名ほどで独歩患者を引率して洞窟を後にした。長い列である。重傷患者は乾パンを渡し洞窟に残した。慰安婦には乾パンと手榴弾1発を渡し、解散を命じた。彼女達はみな泣き伏した。解散とはいえ彼女達は独歩患者に同行した。 |
証言者 | 竹本兵十 |
証言者属性 | 陸軍衛生軍曹 |
部隊名 | |
資料タイトル | 沖縄戦従軍記録 二十万人の声なき声 |
著者、公文書発信者など | 竹本兵十 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1994.6.1 |
発行所 | 日本図書刊行会 |
ページ | 54-57 |
出典備考 | 注:首里から知念(南城市)、真壁(糸満市)へ移動する様子。どこの慰安所かの記載はない。 |
備考 |
※日本軍慰安所マップの地点としては反映させていない。
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