記載内容 | 焼跡の那覇の街、波之上宮近くの辻原に三角兵舎風の茅葺の掘っ立小屋が建てられ、その前に兵隊が列をつくっていた。「何だろう。特別の配給品でも配っているのか」と思い、近づいて見たら入り口に筆太に「軍慰安所」と書かれた看板が立てられ、中からだみ声の下手な日本語で、「時間、時間、早く出ていけ」と、中にいる兵隊をせかす声が聞こえ、またカマス1枚で区切った隣の部屋では「チョセン、チョセンと馬鹿にするな!」と、兵隊と言い争う声が聞こえた。噂に聞いたが、これが朝鮮ピーだとはじめて知った。・・・娼婦1人で、1日数十人をこなしていたようである。戦後、辻原の慰安所にいたというコザ市に住む初老の婦人に偶然に会うことが出来た。その婦人は小さな飲み屋を経営しており、数回飲みに行くうちに顔なじみになり、心からうちとけ、彼女の過去の身の上話と慰安婦になるまでのいきさつを話してくれた。彼女は朝鮮の西部にある寒村で生まれた。戦争が始まった2年目のある日、面長(村長)が訪ねてきて、この村からも女子挺身隊として数人の割り当てがあり、あなたも志願してくれないかとすすめられたが、最初のうちは嫌だと断った。しかし、しつこく頼まれ、仕事は楽で金になる。ただ兵隊の身の回りの世話をすればよいとのことで、つい金につられて応募してしまった。・・・女子挺身隊になるのだと、張り切って古里を出たが奉天まで来て初めて慰安婦だと分かった。・・・女衒に監視され、逃亡することもできず、支那大陸をたらい回しにされ、沖縄まで連れてこられたという。 |