記載内容 | 私は青年学校勤務中に玉城村役場から防衛召集を受け、2月18日東風平村島尻郡記念運動場に集合した。沖縄本島の島尻郡全町村から約3000人の防衛隊員が集められ、島尻郡在郷軍人会長の訓示があり、各部隊へ配属され、糸満・真栄里の海上挺進基地第26大隊と港川・志堅原の海上挺進基地第28大隊へ引率されていった。わたしは玉城村の防衛隊を港川に引率した。玉城村・知念村は志堅原の仁川の上の民家に入った。・・・4月1日米軍が北谷・読谷山海岸から上陸し、港川方面からの上陸陽動がなくなると、海上挺進第28戦隊も基地大隊も糸数・富名腰の岩山附近に壕を探して散開していたが、数日後アブチラガマに全員が入るようになった。入口の坂を下りた直下の天空の見える所でわずかに雨をしのぐ岩陰で、食糧が積まれた箱の上で昼中は寝ていた。ここでは糸数の住民が兵隊と一緒に入っていた。ガマの中には家も建てられ発電機もあり、電燈もついていた。第32軍野戦貨物廠は津嘉山からアブチラガマに貨物を運びこんでいた。貨物の中には正月料理に使うカズノコ(ニシンの卵)の袋もあり、粉醤油・粉味噌が多く積まれていた。暗い洞窟の中には海上挺進戦隊の見習士官や下士官達がいた。この時一緒に慰安婦も混じっていた。 |