出典種別 | 被害証言 |
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現在の地域情報 | 沖縄県 宮古島市 |
資料にある地域情報 | 宮古島 |
慰安所があった時期 | 1937年 |
記載内容 | 2007年6月、私は、挺身隊問題対策協議会の協力で、申告書類の215名の名簿の中から、90年代初めの申告当時の資料を中心に検討し、沖縄と係わりがある女性4人を見つけた。渡嘉敷で「慰安婦」生活をしていた具順喜さん(1925年生)、座間味島に連れて行かれた全在順さん(1921年生)、解放後、沖縄から韓国に戻る途中の爆撃で手首を失った李春月さん(1920年生)、そして、宮古島に強制連行された朴載男さん(1921年生)である。しかし、この4人の沖縄にいた元「慰安婦」の存在を知ったときには、宮古島にた朴載男さんを除く3人の方は既にこの世にはいなかった。・・・ 朴載男さん(1921年生)は、宮古島で「慰安婦」としての生活を強いられた方である。父親は満州にいて、祖母と妹と一緒に住んでいた15歳の時(数え17)、当時一般的に「処女供出」と呼ばれていたために、家族が反対したにもかかわらず、1937年2月面書記が絹の工場で働くのだと強制的に慶尚北道英陽郡の警察署に連れて行った。釜山で他の地域から連れてこられた女性たちと一緒に船に乗って日本に到着した。日本に着いてから6ヵ月間、京都と記憶する場所の絹工場で働かされた。その後、宮古島に行かされた。宮古島では4年間日本軍の「慰安所」で「慰安婦」生活をし、1日、少ないときには5~6名、多いときには15~16名程度の軍人を相手する地獄のような生活を強いられた。そのうち病気にかかり、お腹が痛く食事も出来ないほど弱くなって、2ヵ月ほど日本軍の相手ができなくなった。1941年8月末、家族の元に戻った。 |
証言者 | 朴載男 |
証言者属性 | 朝鮮人被害者 |
部隊名 | |
資料タイトル | 戦場の宮古島と「慰安所」12のことばが刻む「女たちへ」 |
著者、公文書発信者など | 日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団 |
公文書宛先 | |
発行日 | 2009.9.6 |
発行所 | なんよう文庫 |
ページ | 275、280 |
出典備考 | 1937年とすると、連行先は違う島かもしれない。あるいは時期が異なるのかもしれない。 |
備考 |
※日本軍慰安所マップの地点としては反映させていない。
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