記載内容 | 例えば昭和16年夏、日本陸軍は対ソ戦を決意し中国東北部(旧満州)に60万人の部隊を集結したが(実際は40万人)、このとき、補給担当参謀が飛行機で朝鮮に飛んで来て、「2万人の慰安婦を急きょ集めてもらいたい」と総督府へ要求に来ている。この2万人という数字は、兵隊の性欲求度と経済面から割り出したものだった。ついで、ここから問題なのだが、このとき総督府は各道、各郡から各面長(日本の村長にあたる)へ女性の動員を依頼したものの、集め得た数は8千人にすぎなかった。1万2千人が足りなかったのである。・・・このときの経験から太平洋戦争段階になって朝鮮総督府は“徴用令制”と、女集めに警察権、つまり警察官を使うことを考えたのだった。すなわち“美都波強制収容所”はそのプール場所だったのだ。ここにプールしておいて、軍から要求があると、「まず容姿端麗なものから慰安婦として送り出していました。それと知って、わざと何日も顔を洗わず顔を汚したり、髪をボサボサにしたり、私たちは苦心したものです。軍隊では兵隊さんの洗濯をしたり炊事の手伝いをするだけだと総督府の人たちはいっていましたが、どんなことをするかわかっていましたから」前出のホテルの雑役婦をやっているKさんの話である。・・・この収容所の記録は敗戦と同時に焼き捨てられ、いまはまったく残っていないが、戦後、韓国の某ジャーナリストが記録のないところから掘りおこし調査をすすめていったところ、収容された女性は延べ総計4万2千人と推定されたという。 |