出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 地名特定不可能 |
資料にある地域情報 | 不明 |
慰安所があった時期 | 1940年頃 |
記載内容 | 幸い(?)その町には2軒の慰安所があった。ドヤドヤと我々はくり込み、それぞれ慰安婦の女を抱いた。前線にあってはできないこと。帰りはどの顔もみな満足気であった。・・・私が宣撫施療から帰隊したときだった。何か医務室で大あわてしている。それは慰安婦だったが、サルバルサン注射をするのに静脈注射を少し洩らしてしまい、女が苦しみもがいている。どう処置していいかわからず困り果てていたのだ。・・・ 「ハイ、3日前のことです。馬繋場の当番をしていますとき、美人の姑娘がやってきて、兵隊さん遊ぼうと言って、金をとらずにさせてくれたのです」「馬鹿野郎、お前たちはそのまま日本へ帰れ。・・・お前等はスパイにひっかかったのだ。そのバケツに水を一杯汲んでこい」・・・ 私は水津軍医をうながして2人の診察をしてもらい、病床日誌を作成すると入院手続きをとり、その日の午前中に2人を野戦病院へ護送した。すると間もなくだった。私の報告が届いたのか慰安所検診の命令が出る。・・・「看護長1人で行ってくれ」と言う。・・・無理もない。軍医の身で相手が兵隊ならともかく、慰安婦ときては二の足を踏むのも当然だ。慰安所へ着いた私は軍医には別室に入ってもらい、1人で検診を始めた。慰安婦は朝鮮の女性がほとんどだった。20歳から42,3歳くらい、10人ほどいた。 |
証言者 | 藤本秀美 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 戦場に於ける看護日誌 |
著者、公文書発信者など | 藤本秀美 |
公文書宛先 | |
発行日 | 2002.8.15 |
発行所 | 文芸社 |
ページ | 39-42、 56-58 |
出典備考 | 注:著者略歴に「14年3月 軍医予備員として武漢大学に入学 6月 軍の特別教課を受け卒業 7月 陸軍衛生伍長に任命」とある。1940年頃のことだろうか。上記証言以外にも、慰安婦「百合子」が腰痛になったこと、慰安婦が待遇改善の座り込みがあったことが記載されている。 |
備考 | 著者略歴に「14年3月 軍医予備員として武漢大学に入学 6月 軍の特別教課を受け卒業 7月 陸軍衛生伍長に任命」とある。 |