出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 地名特定不可能 |
資料にある地域情報 | ビルマ |
慰安所があった時期 | 未記載 |
記載内容 | 昭和19年6月30日午前3時すぎ、山下汽船の貨物船「鶴島丸」(4,652総トン)は、フィリピン・マニラ湾西方沖で米潜水艦による魚雷3発を左舷に受けて沈没した。仏印(現ベトナム)サイゴンを出港し、マニラ経由で日本内地に向かう同船には「多数」の慰安婦が乗っていたが、その多くが海没した。「慰安婦の一隊はビルマ戦線から仏印にたどり着き、1日も早く国に帰りたいと熱望する若い女子の群れであって、オトウサン、オカアサンと呼ばれるボス夫婦に率いられて、数年を戦場に送っていたものである」(山下汽船殉職者追悼録) 以下、追悼録に寄せられた五條橘夫船長の手記によればー、深夜の闇の海に投げ出された五條船長は、おびただしい木材類が浮かぶうねりの向こうで、若い女たちの「胸を締めつける悲鳴」を聞いている。「オトーチャン」「オトウーサン」「カーチャン」「オッカサーン」さらに友を捜すのか、「ハルチャーン」「シズチャーン」といった叫びもまじってきたが、やがて、それらの声は闇の海に遠去かっていっている。のち、護衛艦に救助されてマニラに着いた五條船長は、やはり着の身着のままで助かった数人の慰安婦を見たが、彼女たちは友を失った悲しみに加え、「悲嘆のどん底」にあった。なぜなら、それまでビルマで稼ぎ貯めた「全財産」を託していたオトウサンの行方不明が伝えられたからだった。 |
証言者 | 五條橘夫 |
証言者属性 | |
部隊名 | |
資料タイトル | 生き残った兵士の証言 極限の戦場に生きた人間の真実 |
著者、公文書発信者など | 土井全二郎 |
公文書宛先 | |
発行日 | 2004.9 |
発行所 | 光人社 |
ページ | 209-210 |
出典備考 | 山下汽船殉職者追悼録 |
備考 | ビルマのどこの慰安所にいたか不明。 |