出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 地名特定不可能 |
資料にある地域情報 | 航海上 |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 船は7隻で船団を組み門司に立ち寄って、ここで沢山の兵員や軍属さらには慰安婦要員と覚しき女性群(大阪の「丸玉」というキャバレーの従業員らしかった)を積み込んだ。豊後水道を通って外洋へでる。いつの間にやら海軍の駆逐艦が1隻、船団の護衛についてくれていた。泣いても喚いてももう日本の国は遥か彼方へと消え去っている。シンガポールまでの2週間ほどの船旅を無事に果たすことだけを考えるしか仕方がない。私たちは見習士官であったが、まだ部隊に付いていないため船内での待遇は下士官・兵や若い軍属と同じであり、船艙の薄暗い板の間(荒筵は敷いてあったが)に何と1坪(3.3平方米)に7人の割合で起居させられた。・・・朝は早くから目が覚めている。やっと8時頃になると2階の食堂で鐘が鳴り、私の横を「丸玉」の女たちを含めた2階の住人(軍人はすべて将校)が通り抜けて、いそいそと食堂に入って行く。やがてコーヒーのよい香りがこちらへも漂って来て腹をくすぐる。私は毎朝心の中で「畜生っ!」と叫ぶのであった。 |
証言者 | 別所源二 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | シンガポール南方軍総司令部付 |
資料タイトル | 青春と戦争 ある戦中派の手記 |
著者、公文書発信者など | 別所源二 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1980.10.8 |
発行所 | 光和堂 |
ページ | 265-267 |
出典備考 | |
備考 | シンガポールへの輸送船中のこと。しかし、その後、どこへ連れていかれるか不明。 |