出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | バウカウ県 バギア |
資料にある地域情報 | バギア |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | チモールにも慰安所は開設された。公式記録には「朝鮮人50人」とされているが、実際にはジャワ島あたりからどんどん渡っていた。ジャワやマライ半島の軍人が減るにつれて、女たちも最前線へと向かったのだ。(ガダルカナル島にさえ行こうとした記録がある。)人種的には、日本人慰安婦(沖縄の女性が多かった)は高級将校用となり、朝鮮人やインドネシア人などが一般兵士用だった。100人足らずの慰安婦に2万人が群がった。とうてい足りないため、チモール人からも集めた。といっても希望する者などまずいないから、酋長に供出を頼む。さすがの親日チモール人も喜んで出したわけではないだろう。しかも、集めた女たちを軍医が検査するとほとんどが病気だった。100名中2名しか合格しないありさまである。岩村中尉(1944年5月昇官)が命令によりバギアに慰安所を開設することになった時は、付近の住民の女は全員失格だった。そこであちらこちらから中国人やインドネシア人の女が集められたが、その中にキサル島の女たちもいた。キサル島とは、チモール島東端の少し北にある小島である。この島に討伐にいった小原正大中尉が、ある村の男を皆殺しにし、女たちを連れてきたのだという。〔注・このキサル島討伐については確認がとれていない。同時期、小原中尉はモア島守備隊の任についていた。チモール島周辺の島も第48師団の警備範囲に入っていたが、1944年以降これらの島々に事件が続発している。戦況の悪化とともに連合軍側の工作が活発化し、反乱・反抗・通敵等が相次いだ。それに対して討伐が行われている。〕 慰安所だけでなく、チモール人部落における強姦事件もところどころで起こっている。このような日本軍の軍政に対して、立ち上がったチモール人も多くいた。 |
証言者 | 田中淳夫 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | チモール 知られざる虐殺の島 |
著者、公文書発信者など | 田中淳夫 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1988.1.15 |
発行所 | 彩流社 |
ページ | 120-121 |
出典備考 | |
備考 | 現在の地図でバギアはチモール島東部の中央付近にある。バウカウ県の東南部である。 |