出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | セントーサ島 |
資料にある地域情報 | ブラカンマチ島(現在のセントサ島) |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 「私が第三航空軍燃料補給省の通訳としてシンガポールのプラカンマチという島(現在のセントサ島-戦争博物館で有名)に行っていたある日、14、5人の朝鮮人の女の子が慰安婦としてそこに連れてこられました。すると、隊長は私に彼女たちに日本語を教えろと言うのです。・・・彼女たちは私が兵隊でないのを知っていたので、本当のことを話してくれました。「通訳さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。」・・・やがて慰安婦たちが商売をする慰安所ができたのですが、その慰安所が始まる前に、小太りの隊長が毎晩彼女たち一人ひとりを試しているのを聞かされました。 |
証言者 | 永瀬隆 |
証言者属性 | 燃料補給廠通訳 |
部隊名 | |
資料タイトル | 青山学院と出陣学徒-戦後50年の反省と軌跡 |
著者、公文書発信者など | 青山学院大学プロジェクトクト95 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1995.8.1 |
発行所 | 私家版 |
ページ | 218 |
出典備考 | 永瀬隆「私の戦後処理」 |
備考 |