出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | マニラ首都圏 マニラ市 |
資料にある地域情報 | マニラ |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 軍紀は乱れ始めると際限がない。試みにマニラ市内に日本からどれほど多くの売笑婦が送られて来たか。料理屋、待合、カフェ、女郎屋は市内に溢れるやうに出来た。そしてそこへあらゆる種類の日本人が毎夜のやうに詰めかけ、群がり、酒池肉林の獣性を発揮してゐた。この地に現地人の売笑宿がある。どれも満員の盛況である。・・・ 私は昭和16年11月に徴用を受けて、約1年間マニラの報道部で働いた。戦争は勝ちいくさだと景気のいゝもので、文化工作も寛大を旨とするといふ命令で、日比親善工作が第一の目的だった。・・・利にさとい御用商人が軍を背景にして阿こぎな儲けを働いてゐたのも、私が帰還する前に既に目撃してゐたことである。慰安婦が汽船で続々送られて来る。大阪風の大カフェが出来る。待合料理屋も進出して、三流か四流芸妓が三味線を弾いたり、踊ったりするのだから、米国風の生活様式に馴染んだ比島人達は驚いたに違ひない。・・・ 或る公式の宴会で、マニラ市長が私に映画の配給は有難いが、女の配給は考へものではないかと顰蹙したことがある。女尊男卑の国で、帯しろ裸の醜業婦が下駄履きで御用船から降り、舗装道路を乱れた列を作って慰安所に配給される光景は、日本人の私が見てゐて恥かしい思ひがしたものである。 |
証言者 | 今日出海 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | |
資料タイトル | 悲劇の将軍 |
著者、公文書発信者など | 今日出海 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1952.6.5 |
発行所 | 文芸春秋新社 |
ページ | 27、44-45、109 |
出典備考 | |
備考 |