記載内容 | 私は新京で、兄が勤めていた日本人商店の主人富士見の子守になった。17歳の年の秋、日本兵が押しかけてきて、私と他の7人の娘をむりやりにトラックに乗せた。2時間以上走って着いたところは意外にも日本軍兵営だった。そこにはじめて見る「慰安所」というのがあった。「慰安所」は鉄条網をはりめぐらした2階建ての家で、兵営からちょっと離れており、歩哨が立っていた。はじめの2~3日間は日本兵の要求を拒みつづけた。かれらは銃を突きつけて殺してしまうとおどし、私の腰や背、足を容赦なく蹴り、手のひらを革帯で打ったので皮が剥がれた。それからは恐ろしくて日本兵の要求に応じた。かれらは昼夜休むまもなくやってきた。食事は1日2回で、麦と米を混ぜた飯にワカメ汁で部屋まで運んできた。「慰安所」の外へは用便のときだけ出され、それも歩哨がついていた。一緒にいた「慰安婦」のうち英子(慶尚道)と秋子(平安南道)の名前を覚えている。翌年の春、私は体が衰弱し、病気がちになった。何日も意識が朦朧としていたある日、日本兵が軍医を連れてきて検診したあと、私を担架で運び出して谷間に捨てた。私はありったけの力で這い続け、近くの民家にたどり着いた。ノックをすると男の主人が出てきて、何か言ったが、中国語だったので最初はよくわからなかった。その後、私はかれに兄の住所と名前を告げて連絡してほしいと頼んだ。兄が来たのは3か月後だった。こうして私は「慰安所」から抜け出すことができた。 |