出典種別 | 被害証言 |
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現在の地域情報 | 遼寧省 大連市 |
資料にある地域情報 | 大連 |
慰安所があった時期 | 1939年春 |
記載内容 | 9歳のときから宿屋の下女奉公をした私は、そのうち日本軍将校に引っ張られて「従軍慰安婦」になり、大連(現在の旅大)に連行された。私が15歳になる1939年春のことで、一行には私と同じ年頃の娘が5人いた。ある2階建ての家で、将校は私たちをねめまわし、「おまえたちはよいことをしにここへ来た。戦地で苦労している日本軍を親切に慰安するのがおまえたちの務めだ」と言った。それまで「よいこと」がなにを意味し、「慰安」とはどういうことかも知らなかった私たちは、ただ恐くて震えていた。かれらは私たちに肌着も着せず日本の着物を1枚くれたきりで、頭を断髪にしたあと、板で仕切った部屋に1人ずつ押し込んだ。私の入った部屋には小さな鉄製のベッドが置いてあった。しばらくすると、長靴を履いて軍刀を下げた将校が入ってきて、泣いている私を抱きあげベッドの上に倒した。私はさっと起きあがり、将校のズボンにすがって帰してくれと哀願した。泥にまみれた私の顔を黙って見つめていた将校は、軍刀を引き抜いて、「言うことを聞けば生かしてやるが、聞かなければ殺してしまう」と言って、私にとびかかった。私は大声で「母ちゃん!」と叫び、力一杯かれを蹴った。そして無我夢中でその男の手といわず足といわず手当たり次第に噛みついた。どこからそんな力が湧いたのかわからない。15歳の少女だと見くびって抱きついてきたかれは、思いがけぬすさまじい反抗にびっくりして突っ立っていたが、外から兵隊を1人連れ込んだ。そして私をつかまえて、両手と両足をベッドにくくりつけた。私は乗りかかる将校の顔に目をすえた。人間の顔ではなかった。 |
証言者 | 鄭金玉 |
証言者属性 | 朝鮮人被害者 |
部隊名 | |
資料タイトル | 踏みにじられた人生の絶叫 |
著者、公文書発信者など | 「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1995 |
発行所 | 「従軍慰安婦」・太平洋戦争被害者補償対策委員会 |
ページ | 51-52 |
出典備考 | |
備考 |
現在の地図で大連は、遼寧省南端の遼東半島東岸沿いに位置する。テキサス大学図書館公開地図で当時の大連市の位置を知ることができる。アジア歴史資料センター:E17010002400の『大連要覧』の地図で大連市街拡大図を見ることができる。テキスト大学図書館公開地図は次を参照のこと。 http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/manchuria/txu-oclc-6614368-nj51-5.jpg |