記載内容 | 自分が北京の方面軍に勤務のとき、山田恵一准尉が良い所に連れて行ってやろうと、将校慰安所へ行った。見るからに贅沢そのもので、玄関から飛石づたいに松竹梅と他に樹木が植えられて雪見燈籠まで木造建築の和風式享楽の館。・・・キョロキョロ見渡すうちに「驚かれましたか、贅沢でしょう。あの准尉さんがこんな馬鹿なことがあってよいのかと怒っていらっしゃるんですよ」何処の部隊ということで一線の山岳を話すのであった。彼女の生まれは熊本で貧乏がたゝって宮津の遊廓に1年で200円の借金が中々返せないのでここに来たといい、兄も弟も軍人で、戦地には来ているが何処に居るやら分からないし、分ったとしても、賤しい私の姿を知らせたくないと、涙ぐんでいた。重ねて語るに憲兵と将校にもよい人があって総てと言いがたいが、権力とでも言うのか、弱い者いじめと言うのか、自分の意に沿わなければ斬る刺すといった横暴で、この傷もそうよと見せるに、首から肩にかけて太く黒い傷跡があった。これは憲兵少尉にやられたといい、私を求めて酒の上とは言え、ああしろ、こうしろと人にあるまじき難題に辱められることを、拒んだために天皇の命令に背くのか、侮辱するのか、女郎如きが、成敗してやると、軍刀で斬られたと話し、無謀な権力を以て中国人にも因縁をつけてお金を取ったり軍の物資の横流しにどうやら将校もかかわっていると、山田准尉さんもおっしゃっていました。彼女は26歳といい、前借も殆ど返したが、今少し蓄えて郷里に帰り正業につきたい。あなたも命だけ大切にして必ず帰って上げて下さいというのであった。各司令部に将校専用の日本の慰安婦の館が設けてあり下士官兵の出入りできる処ではなかった。・・・ |