出典種別 | 兵士の回想録等
|
現在の地域情報 | 湖北省 武漢市 |
資料にある地域情報 | 漢口 水月 |
慰安所があった時期 | 1943年3月 |
記載内容 | 漢口兵站が施設としてもっていた将校料亭というのは、祇園、水月、銀翼と、中華料理専門の扶桑閣で、いずれも江漢路と中山路の交差点の近くかその周辺にあった。祇園、水月、銀翼には、それぞれ接待婦(芸妓ーといっても芸妓と娼婦の二枚鑑札)をおいてあってその数は24,5名。祇園がその半数以上をしめていた。扶桑閣は専門食堂であるため接待婦はおかず、昼間は下士官兵も利用できた。接待婦は、慰安婦とくらべると収入が少ないので希望者も少なく、その補充にはいつも苦労し、慰安所から富士子、秀弥など内地で芸妓の経験のあるものを説得して接待婦へ住み替えさせたものである。接待婦は慰安婦より格が上とされていたが、慰安婦という呼称にはどこか賤業的なニュアンスが感じられるので、接待婦甲、乙と改称するよう軍司令部へ具申したことがあったが賛同は得られなかった。 |
証言者 | 山田清吉 |
証言者属性 | 日本軍兵士・慰安係長 |
部隊名 | 漢口第51兵站警備隊 |
資料タイトル | 武漢兵站 |
著者、公文書発信者など | 山田清吉 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1978.12.25 |
発行所 | 図書出版社 |
ページ | 139 |
出典備考 | 注:著者紹介に「昭和16年召集小笠原父島要塞歩兵隊から漢口第51兵站警備隊に転属、のち武漢兵站副官、元陸軍大尉」と、また60pに「昭和18年3月28日、私が漢口兵站司令部に着任したとき、慰安係長は西口義雄少尉という温厚な人柄のまだ年若い青年将校がつとめていた」とある。漢口で慰安所をや料亭を担当したのは1943年3月以降のようだ。 |
備考 |
著者紹介に「昭和16年召集小笠原父島要塞歩兵隊から漢口第51兵站警備隊に転属、のち武漢兵站副官、元陸軍大尉」、p60に「昭和18年3月28日、私が漢口兵站司令部に着任したとき、慰安係長は西口義雄少尉という温厚な人柄のまだ年若い青年将校がつとめていた」とある。
|