出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 湖南省 邵陽市 大祥区 |
資料にある地域情報 | 湖南省 宝慶市 |
慰安所があった時期 | 1944年秋頃 |
記載内容 | ついに、密偵たちの説得と誘引工作が功を奏して、女たちが来ることになったというのである。女たちの人数も10数名にのぼるという。このことを早速、司令部参謀に電話連絡すると、副官部に連絡しておくから、女たちが着いたら引き渡してくれという。われわれは女たちの身柄を引き渡せばこれで任務終了と思い、やれやれ、やっと厄介な問題を卒業できるかと、ほっと一息ついた気でいた。ところがそう簡単にはいかなかったのである。・・・慰安婦一同を収容し終えたという報告を聞いた夕刻、昼間の勤務を終わって帰隊した部下一同を集めて私は次の申し渡しをした。まず、司令部側からの要望で、憲兵の手で将来部隊用の慰安婦となる女たちの募集工作を実施してきた結果、婦女子の収容が実現したこと。・・・の諸点を注意したのである。やがて数日経ってから次級副官からの電話で、「慰安婦収用施設の整備がやっと出来上がったので引き取りたい」という申し出である。即刻引き取ってくれ、と返答したところ、副官が自分で引き取りのために部下をつれてやってきた。・・・憲兵が募集して兵団に引き渡した慰安婦たちを一般下士官・兵用として回すのは取り止めとなり、将校用慰安婦に利用されているという噂である。それが事実とすれば、言語同断の話である。実否を究明せねばならぬ。・・・「女たちを将校慰安所に振り向けているなんてことは絶対にない。君も知るとおり、先頃から中国側幹部連中との会談とか、または司令部内の部隊長会議後の親睦会の折などに座の取リ持ち役として女たちを使っているだけだ。・・・下士兵用慰安所も監理部で準備中で、近いうちに開設するということだったよ」という返答であった。なんだかすっきりしなかったが、その後ほどなくして下士官兵用の慰安所も別の場所で開設されたので、この問題もうやむやのうちに立消えになった。 |
証言者 | 山田定 |
証言者属性 | 日本軍兵士・憲兵准尉 |
部隊名 | 116師団 |
資料タイトル | 憲兵日記(全) |
著者、公文書発信者など | 山田定 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1985.8.10 |
発行所 | 駿河台書房 |
ページ | 275-278、281-282 |
出典備考 | |
備考 |
テキサス大学図書館公開の中国地図・SHAO-YANG(シリーズL500、1954~)に「邵陽」がある。地図の左下付近「4-1」にある。より古い地図、宝慶10万分の1の地図には、激しく蛇行する「資水(資江)」の南岸に「寶慶県城」がある。これを現在の地図と比較すると、卲陽市大祥区の中心部に該当する。現在の地図で同所は「卲陽市」である。テキサス大学図書館公開の中国地図・SHAO-YANGは次を参照のこと。 http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-ng49-3.jpg |