出典種別 | 兵士の回想録等 |
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現在の地域情報 | 湖南省 邵陽市 新邵県 牛軛嶺 |
資料にある地域情報 | 湖南省 譚家壠南方の牛額嶺(寶慶東北東約20キロ、黒田舗西方約8キロ) |
慰安所があった時期 | 1945年6月 |
記載内容 | 三 牛額嶺の慰安所(地図第36) 昭和20年6月16日、独立山砲兵第2聯隊は江冲ー黒田舗ー両市塘の地域に集結し、洪橋付近の陣地構築に従事したのであるが、19年5月末湘桂作戦を開始して以来、初めての長期駐留が予想されるようになった。長期駐留となると慰安所の開設が問題となる。・・・第1大隊本部は譚家壠に集結したが、集結して間もなく第1大隊の慰安所を開設したいという意見が出て来た。芷江作戦の死闘を潜り抜けて生きている悦びを噛みしめており、前途には洪橋の陣地を墓場とする激戦が迫っているという感じがあり、今日1日を精一杯生きてほしいという気持ちが強く、慰安所の開設の意見具申を肯定的に受け入れた。慰安所の開設に当たって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の俸給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。・・・慰安婦は6人だったと思うが、もちろん全員中国婦人であり、20歳前後の若い姑娘2人、30歳前後の婦人2人、30代後半と思われる婦人2人で、30代後半と思われる婦人の1人は子持ちであった。この中国婦人たちは「ひとみ」「ひばり」「ひよこ」「ひろみ」「ひろみ」「ひさこ」「ひでこ」と平原部隊の「ひ」を頭につけた名前で呼ばれていた。慰安所は大隊本部のある譚家壠南方約500メートルの牛額嶺という部落にあり、この部落の5,6軒の家屋の中で一番大きな家屋が利用されていた。この家屋は普通の中国家屋で、門を入ると20坪程度の石畳の中庭があり、中庭の周りには10室ほどの部屋があった。 |
証言者 | 平原一男 |
証言者属性 | 日本軍兵士 |
部隊名 | 独立山砲兵第2連隊・平原部隊 |
資料タイトル | 山砲の芷江作戦 |
著者、公文書発信者など | 平原一男 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1991.3.1 |
発行所 | 私家版(東京都新宿区) |
ページ | 383-386 |
出典備考 | |
備考 | 牛額嶺(牛軛嶺)は現在の地図の「卲陽(宝慶)」の東方にある。本資料には「地図第36 洪橋ー黒田舗 5万分の1」が添付され、「牛額嶺」の位置がわかる。この5万分の1の地図と現在の地図を比較する。旧地図の西洋江と思われる蛇行した河川と現地図の同河川の蛇行が相似形であり、この河川の位置と、牛額嶺に至る途中の地名を比較すると、旧地図の「牛額嶺」は現在の「牛軛嶺」である。 |