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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報広東省 広州市
資料にある地域情報広東市内
慰安所があった時期1939年頃
記載内容攻略直後頃は左程でもなかったが、捨ててもおけず、身体検査をして、病気の危険がなければ慰安所形式で許可しようとしたが、結果はその内30パーセントは癩病患者であることがわかり、花柳病押して知るべしで、日本人立ち入り禁止と布告されたものである。・・・広東市内外に開店した慰安所にも、女の種類によって日系、台湾系、朝鮮系、支那系と別れていた。そして、又その内にも、将校用、下士兵用と区別されている。・・・此の下士官(准士官)、それをよいことに、将校気取りになって主計少尉をないがしろにしがちである。・・・計理官代理で、兵站部への連絡出張で理由が立つ。それをよいことに慰安所通いである。だからその慰安所に行くと、誰よりも顔のきく男となった。・・・ある日、是非往診してほしい所があると、私を慰安所に連れて行った。正しく患者がいて治療してやった。そのお礼に、今日は慰安婦を抱かせるといいだした。女を買うのに、人に出して貰う程飢えてはいない。・・・
広東に来た時、是非訪ねてくれと、九竜地区にいた時色々世話をしてやった鈴木という軍御用商人の店を訪ねて見た。使用人もたくさん居って、大きくやっている。福島県白河出身とかで更になつかしく、部隊は獣医務下士官と同郷だそうで、大いに話がはずんだ。使用人の中に、26、7才の日本の女で中々話のわかるのがいた。話している内に、親をうらんでいることが分かった。彼女は、高等小学校を終わるとすぐ満15才の時、親の為に大阪に女郎として売られた。6年間の勤めを終えて故郷の四国に帰った。・・・これからどうしようと考えていた矢先に、再び親が、最後の願いだ、もう4年間体を貸してくれと申し出た。
証言者山田長之助
証言者属性日本軍兵士・軍医
部隊名
資料タイトル我が従軍記
著者、公文書発信者など山田長之助
公文書宛先
発行日2006.12.15
発行所Oc&Sパブリッシング
ページ54-55, 58
出典備考
備考 テキサス大学図書館公開の中国地図・KUANG-CHOU(シリーズL500、1954~)に「広州」がある。地図の下中央「3-5」にある。現在の地図で同所は「広州市」である。テキサス大学図書館公開の中国地図・KUANG-CHOUは次を参照のこと。
http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-nf49-4.jpg
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