記載内容 | それはともかく、こうした敵の密偵の諜報によって、わが方の警備交代もいち早く敵に知れてしまう。その証拠には、われわれが朱村に来るまでは、大阪の菰田兵団(第104師団)が警備していて、毎晩のように敵襲を受けていたそうだが、われわれが警備交代をしたその日から、敵襲はパッタリとなくなってしまった。ところで、長い間作戦が続いていたので、兵隊も不自由しているだろうという配慮から、われわれが朱村に来て、間もなく、慰安婦たちが自動車隊に送られてやってきた。兵隊たちは歓声をあげてこれを迎えた。東莞にも慰安所があったが、初年兵としての苦しい訓練の連続と、ここは戦地だという緊張感から、そんなものには全く関心がなかった。広東の市内警備の時慰安所のそばを通ったが、ほとんどが朝鮮の女性で、無理もないことだが荒み切った感じであった。またそのあたりの雰囲気は索漠たるもので、何ともやり切れない空気が漂っていた。この朱村の慰安所は果たしてどんな風であったろうかと、私は戦友に誘われるまま、大工たちの兵によって急造された仮慰安所を見学に行った。すると、そこには番号札を持った兵隊がたむろしていて「おーいまだか、長いぞ、早くせい」などと室内に向って怒鳴ったり、甚だしいのは扉をどんどんたたき、はては扉の上によじのぼって中をのぞき込んでいる。だが、その兵たちの顔は何のてらいも屈託もなく、きわめて朗らかにふざけ合いながら待っているのであった。 |