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資料の詳細

出典種別 兵士の回想録等
現在の地域情報広西チワン族自治区 桂林市 全州県
資料にある地域情報全県 亭里村
慰安所があった時期1945年4月
記載内容橋板は橋桁に乗っけただけであり、踏めばピョンと跳ねる。渡りおわって、また田の中を歩くと、林の中に数戸の小部落があった。小さな丘を越えると、また田である。右手に見える森の中にあるのが亭里村だ、とはあとで知った。森の左端に歩哨の姿が見え、その背後、池のほとりでしゃがんで洗濯している中国服の女の群れがある。「あれは、うちの大隊でしょうか」「ンでねェ」と今度は中尉が答えた。「〈椿〉よ。〈椿〉の歩兵216連隊。女を徴発することにかけちゃ、かなわねェよな、まったく」また唾を吐いたが、以下、中尉が唾を吐くことはいちいち断るまい。亭里村のそばを過ぎ、丘に登って、日が暮れた。「これで、迷うの何度目だかなァ」と中尉は兵に話しかける。大隊本部にたどりついたのは、かなりの時刻だった。本部のある部落の名は黄泥崗である。・・・
証言者阪本楠彦
証言者属性日本軍兵士
部隊名歩兵第216連隊
資料タイトル湘桂公路 一九四五年
著者、公文書発信者など阪本楠彦
公文書宛先
発行日1986.8.15
発行所築摩書房
ページ36-37
出典備考亭里村の位置。戦後、証言者は訪中し亭里村などを再訪している。217p以降にその再訪の過程が記されている。戦時中は、白沙(全県城から南下する鉄道が走っている、全州の西方)から河川(湘江)を渡り亭里村の脇を通ったのだが、戦後の訪中時には全県中心部から南下する道路が整備されていた。中国側の担当者に車で案内され、全県ー(南下)ー石塘ー(右折:西方へ。なお実際に石塘は存在する)ー三叉路(地名ではない。直進すると麻子渡だが、ここを右折)ー亭里村のルートで到着する。その時には亭里村ではなく「廠里」と呼ばれていた。問題はここから。グーグルマップで全県の「廠里」で検索すると、全県の北方の地域がヒットする。もちろん当時の亭里はここではない。グーグルマップや百度で亭里村を探すと見つからず。だが、似た地名の「享里」が全県の高速道路インターチェンジ付近に存在している。そして戦後の再訪のルートはまさにこの「享里」方面なのである。現在の「享里」が「亭里村」の誤りだろうか。しかし、阪本が訪中した80年代にはすでに村名は「廠里」となっていたはずなのだが。
備考 以下は推測だが、当時から「亭里村」と「享里」の両方があったのではないか。「亭里村」(つまり廠里)は何らかの理由(根拠はないが例えばインターチェンジ建設など)で全県北方に移転した。その結果、残っているのが「享里村」であるというもの。結局、結論は得られず、当時の「亭里村」は不明とし、行政区画上、上位の「全県」(現・全州県)でとった。界首10万分の1の地図に黄泥坵がある。その位置は「享里」の北東である。現在の地図にも同所に「黄泥丘」がある。阪本らは陶家村から湘江を渡り「享里」の側をとおり黄泥丘についたのであろうか。また界首10万分の1の地図に、石塘から西方に延びる道路上に「麻芝渡」がある。これが「麻子渡」であろうか。現在の地図に「麻市村」がある。現在の地図に「麻芝塘」もある。「麻市村」の北であり道路から外れる。この「麻市村」の少し前(東寄り)に三叉路があり、この三叉路を石塘から西進して右折すると不思議なことに「享里」に到るのである。
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