出典種別 | 目撃証言 |
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現在の地域情報 | 海南省 三亜市 |
資料にある地域情報 | 海南島 三亜 |
慰安所があった時期 | 1944年12月 |
記載内容 | その日は、テントで特別の受け付けがつくられ、産婦人科の軍医が出張して来た。やがて、4台のトラックに満載された百人を超す女たちが運ばれて来た。日本中が地味な色のモンペ姿に統一されているというのに、この人たちは、色とりどりの着物を着流しにしたり、すその長い朝鮮や台湾の服を着ていた。いったいこの人たちは誰なのだろう。そして、何が始まろうというのかしら。私がキョトンとしていると、担当の衛生兵が、慰安婦の検診なのだと教えてくれた。・・・慰安婦の名前の上に、「将校用」「兵隊用」「軍属用」と書かれてある。「これ、どういうこと?」「ああ、これか。将校用は日本人、兵隊用は朝鮮人、軍属用は台湾人だとよー」その衛生兵は、なげやりな言い方でそう言った。・・・それからの毎木曜日、私は慰安婦検診の介助をつとめねばならなかった。そうしてみると、部隊を中心にして、病院、慰安所、その他の遊び場が、ぐるりととりまいており、部隊の移動にともなって、これらの施設もついてまわっているということ、慰安所は、将校が「海南荘」と呼ばれる立派な建物なのに、それ以外はバラック建てのカーテンで仕切られただけの粗末な部屋だということなど、私にとってはまったく驚くことばかりが、次つぎとわかってきた。・・・彼女たちは、遊廓制度廃止後かくれて営業していたところ連れてこられた人が多く、ほかに、「特殊看護婦」という名目で、本人も看護婦をするつもりで知らずにやって来たという人もいた。九州、四国の人がほとんどで、アクセントの強い方言がわからずに困った。朝鮮人・台湾人慰安婦もいた。 |
証言者 | 江川きく |
証言者属性 | 日本人従軍看護婦 |
部隊名 | |
資料タイトル | 白の墓碑銘 |
著者、公文書発信者など | 医療文芸集団 |
公文書宛先 | |
発行日 | 1968.6.30 |
発行所 | 東邦出版社 |
ページ | 233-236 |
出典備考 | 江川きく「撃沈」 |
備考 |
注:西野瑠美子・荒井信一・前田朗『従軍慰安婦と歴史認識』1997.11.25、新興出版社、52-53ページの「中里チヨ」と同一人物/テキサス大学図書館公開の中国地図・崖県(シリーズL500、1954~)に「三亜街」がある。地図の左端「cl3-2」にある。現在の地図で同所は「三亜市」である。テキサス大学図書館公開の中国地図・崖県は次を参照のこと。 http://legacy.lib.utexas.edu/maps/ams/china/txu-oclc-10552568-ne49-5.jpg |