記載内容 | 拉孟では、建設隊のほかに各隊からも作業兵を出して、兵舎営門を出たところの記念碑高地と裏山陣地の間を切り拓き2棟を建てた。兵たちは張り切り、陣地内でいちばん立派な建物になった。第一陣が到着したのは昭和17年の暮れも押し詰まっていた。初めは朝鮮娘10名だった。みんな将校クラブ勤務とか挺身奉仕隊など「お国のため」(彼女らの本当の祖国は違うのだが)という、かっこよい触れ込みに欺されて集められた。逃げ場のない輸送船内で、抱え主に事実を告げられいい含められて、泣く泣く「実習」で仕込まれてきた娘たちだ(丸山豊軍医は、龍陵に開設されたとき、婦人科医がいなくて一時、検診をやらされたことがある。そのときの話によると、村長の娘や曲芸師などがいたという)。だから18,9から22歳くらいまでの若くて綺麗な娘ばかりだった。年が明けると、さらに日本人5名もはるばるやってきた。ほかに朝鮮娘5名も増え、みんなで20名ほどになった。日本人は内地での玄人だったが、それも元々は貧しい家庭からの出稼ぎ娘だ。最初の10名は翌年、龍陵のやはり朝鮮娘と交代した。純情な娘ほど兵との馴染みが真剣にやりやすい。事実、南方戦場ではよく慰安婦が身籠り子供を生んだ。ここでも、ヨシ子とかいう(マサ子と記憶している人もいる)朝鮮慰安婦が男の子を生んで猛雄と名付けられた。ヨシ子は龍陵に鞍替えして、拉孟全滅に巻き込まれずにすんだ組だ。 |