記載内容 | 拉孟陣地の陥落が刻一刻と迫っていた。吉武伍長は、最後の横股陣地から2,3人の「慰安婦」が飛び出すのを見た。水無川の方に転げ落ちるように逃れた。この中に朴永心さんも含まれていたかもしれない。横股陣地を脱出した朴永心さんは、中国軍に捕らえられた時、下腹部から激しい出血があった。切迫流産しかかっていた。中国人の医師の手術を受けたが、お腹の子は死産であった。朴さんは治療を受けた後、保山、楚雄の収容所を経て、昆明の捕虜収容所へ連行された。・・・9月7日、横股陣地に追い詰められた。雨でビシャビシャになっているコの字型の大きな横穴壕に重傷者と「慰安婦」たちが混在していた。昇汞錠が重症者と「慰安婦」にも配布された。重傷者はほとんどが昇汞錠を飲まずに手榴弾で自決した。・・・横股陣地の壕からは自決した日本兵と共に2名の「慰安婦」の死体が発見された。自決兵の手榴弾の巻き添えになったのか、もらった昇汞錠で自決したのかは定かではない。第33軍作戦参謀の辻正信が自著『十五対一』(酣火社、1950年)の中で、「日本人慰安婦は晴着の和服に最後のお化粧をして青酸カリをあおり、数十名一団となって散り、朝鮮娘5名だけが生存」(129頁)と書いているが、実態は、彼女らは死に化粧もしていないし晴れ着も着ていなかった。死因も青酸カリではなかった。さらに、日本人「慰安婦」の詳細がわからないだけに、死亡した2人が日本人かどうかも不明である。つまり、青酸カリをあおり、朝鮮人「慰安婦」を逃がして、大和撫子は兵士とともに死を選んだというのは、辻の捏造した「美談」であり、事実とは異なる。 |