記載内容 | 元日本兵の証言によると、騰越には、少なくとも城内と城外の3カ所に慰安所があったという。畢世銑(1934年生まれ)の母方の祖母の家は城外(東華西路)にあったが、この家も慰安所として使われたという。この家は城壁の南門に近いところにあり、建物はしっかりした造りで部屋数が多く井戸があったなどの理由で、日本軍はその家は慰安所として選んだらしい。建物は中国式のスタイルと西洋風の趣を取り入れた「中西合壁」の造りだった。・・・畢が住んでいた家は祖母の家から少し離れた城内にあった。隣家は「留芳照相」という2階建ての写真館だったが、日本軍はこの建物も慰安所にしていた。荷物を取りに自宅に行った畢は、隣家に見覚えのない女性たちがいるのを見たという。「7,8人の女性たちが庭におり、井戸の水を汲んでいる人もいました。若い女性はワンピースを着ていて、年配の女性は日本の着物を着ていました。その後、もう一度荷物を取りに行ったことがあります。2階で荷物を整理している時に、隣の建物から女の歌声が聞こえてきました。その日はもう一人、眼鏡をかけて首に聴診器のようなものをぶら下げている男も見ました。軍医だったのかもしれません。私は見慣れぬ女性たちは誰なのか祖母に尋ねたのですが、祖母は困った顔をして『日本人と朝鮮人だ。見ない方がいい』と、私をたしなめました」 |