出典種別 | 目撃証言
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現在の地域情報 | 西ジャワ州 バンドン |
資料にある地域情報 | バンドンの商店街ブラガ通り、メゾン・ボーヘライエンの向かい側 |
慰安所があった時期 | 未記載 |
記載内容 | 母はジャーンチェの母親(蘭印航空会社取締役夫人)、鉤鼻のウィリーおばさん、フレーとおばさんと一緒にチハピット特別居住区の小さな家屋に収容された。ぼくは収容所の外に住んでいたが、ライセンスを提示すればチハピット収容所に出入りすることができた。いたるところに日本人監視兵が立っていて、自転車で彼らのそばを通る時には自転車から降り、自転車を木のそばや自転車置き場に置いて、キオツケの姿勢で丁寧にお辞儀をしなければならなかった。それを無視すると大声で呼び戻されて、銃の台じりで殴られるが「オルマット(敬意)」を示しお辞儀をすると通り過ぎることができた。慰安所がキノコが生えるように出現し、日本人はこの面では非常に甘やかされていた。慰安所には印欧人(インドネシア人との混血オランダ人のこと)やオランダ人少女たちもいた。バンドンの商店街ブラガ通り、メゾン・ボーヘライエンの向かい側にも1軒あって、ぼくはユリーと一緒にその慰安所をこっそり覗いた。 |
証言者 | パンス・スコンペル |
証言者属性 | |
部隊名 | |
資料タイトル | 楽園から混沌へ-故郷「蘭印」での青春記- |
著者、公文書発信者など | パンス・スコンペル |
公文書宛先 | |
発行日 | 2005.4.18 |
発行所 | 梨子木舎 |
ページ | 111-112 |
出典備考 | |
備考 |
現在の地図のバンドン市内にBurangrangという一画がある。その東の通りがBurangrang通りである。ここが証言のブラガ通りのことだろうか。
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