出典種別 | 被害証言 |
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現在の地域情報 | 中部ジャワ州 スマラン |
資料にある地域情報 | スマラン |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 14歳の時、父は日本人警官の「真鍮食器を出せ」という命令を断り連行されました。村長は「日本の工場で働けば父は釈放される」と言い、私は行くことにしました。翌1938 年船でインドネシアのスマランに着きました。13人の女達の中で一番年下でした。待っていたのは日本軍で、初日に酒を飲んだ将校に強かんされました。反抗するとアヘンを打たれ中毒になりました。土・日は行列、これほどの地獄はありませんでした。マラリアの薬をためておき40錠になった時1度に飲みましたが、死ねませんでした。ある日「日本軍降伏か」との噂に、みんな防空壕へ逃げ込みました。しかし入れない女性達は少しずつ呼ばれ、銃殺されました。これを米軍に知らせた者がいて、直前で助けられました。1946年、23歳で帰郷しましたが、両親は亡くなり家は廃墟でした。死にたくなりましたが、ひとりで4 ヵ月かけてアヘンを抜き、生き延びました。 |
証言者 | 鄭書云 |
証言者属性 | 朝鮮人被害者 |
部隊名 | |
資料タイトル | 少女の物語 |
著者、公文書発信者など | キム・ジュンギ |
公文書宛先 | |
発行日 | 2014.8 |
発行所 | 日本機関誌出版センター |
ページ | |
出典備考 | |
備考 | 現在の地図の中部ジャワの北海岸にスマランSemarangがある。 |