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資料の詳細

出典種別 公文書・軍関係資料等
現在の地域情報中部ジャワ州 スマラン
資料にある地域情報ジャワ島 スマラン
慰安所があった時期1944年2月
記載内容2.「スマラン」にて起りたる強制売淫事件に就き知りあること如何?
「1943年5月頃、余は教育隊付将校及見習士官の慰安所として飲食店を開設せよとの命を能崎少将より受けたり。本飲食店は「将校クラブ」と名付けられたり。1943年「スマラン」には数ヶ所の慰安所ありたるも何れも職業慰安婦のみが働きをりしも、之等慰安婦の多くは性病に罹りをれり。学校付下士官は自由に之等慰安所へ出入し得たるも1943年末頃には数名の下士官が性病患者が発見され「バンドン」の(性病)病院に入院せしめられたり。其の他の日本軍人、軍属は所謂私物の女を抱え、その住居に出入しいたり。斯かる状態は、防諜上、憲兵隊の取締を厳重にせざるを得ざるを以て望ましくなかりき。故に此の悪状況を終熄せしむる為、より健全な、より衛生的な慰安所の必要性が日本軍将校の間に何度か話題にのぼりたり。余も亦、斯かる状態を是とせず、数回斯かる意味の言辞を洩らしたることあり。
3.その後、如何?
「余が東京へ出発する直前、矢張り「スマラン」幹候隊に配属されありし大久保大佐が余の事務室に来り、余に対し幹候隊配属の将校、下士官用として健全なる婦人を以てする慰安所の設立方を能崎少将の許に建言せんと語れり。余は大久保と共に能崎の許に行く決心せり。
39.強制が行われたりと聞きたる際、何故貴下は慰安所の閉鎖或は婦人の退所処置を構ぜざりしや?
「44年2月、慰安所開設の際は余は「スマラン」にあらず。然し能崎少将及大久保大佐は同地にをりたり。能崎と大久保は強制の行はれたることを良く知りいて、之を黙認せしものと判断せり。依って余は能崎が之を知りありと判断し、余が干渉すべきことにあらずと思料せしものなり。
証言者池田省一
証言者属性第1被告、大佐(45歳)
部隊名
資料タイトルBC級裁判(オランダ)/バタビア裁判 106号事件/本人尋問 第1被告I.S大佐(45歳)
著者、公文書発信者など
公文書宛先
発行日1946.9.11
発行所
ページ
出典備考国立公文書館蔵/wam公文書サイト:J_J_112/106-345~355 1206/R/参考資料:強制動員真相究明ネットワーク刊『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』2014年8月20日
備考
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