出典種別 | 公文書・軍関係資料等 |
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現在の地域情報 | 中部ジャワ州 スマラン |
資料にある地域情報 | ジャワ島 スマラン |
慰安所があった時期 | 1944年 |
記載内容 | 5.欧州人婦女を以てする慰安所開設につき知りたるは何時なるや? 「44年2月1日池田大佐に依り幹候隊に呼ばれ新慰安所青雲荘(「チャンディバルー」)の経営を言渡さる。欧州人婦人を抑留所より出して、慰安婦とするとのことなりき。余と共に呼出されたるものは古谷、蔦木、森本なりしも、この中古谷と森本は既に慰安所を経営しありたり。 7.其の後の経緯如何? 「・・・之等7名の婦人が余の慰安所に来りたる後、余は中に自由意志に依らざる者あることを認めたり。何となれば2名の婦女が余の許に来り斯く告げたるを以てなるも、之は之を福田中尉に報告せり。而るに彼は「どうにもならぬ。構はぬから働かせよ」と云ひたり。・・・青雲荘「クラブ」の開設日には5~6名の高官が幹候隊経理部の命に依り来りたり。・・・余は上述の2名の婦人の問題を福田に云ひて、何等効なかりし時、之を石田大尉に報告せり。彼は善処を約し其の後如何なることになりたるかは知らざるが、之等2名の婦女は「キャンプ」に帰されたり。もう1人の婦人は若干気狂ひの症状を呈せしを以て宮地医師及村上軍医の診断をうけ、やはり「キャンプ」へ帰されたり。何故彼女の気が狂ひたるやは知らざるも、来てから直後のことなりしを以て恐怖の為なりたるものと想像す。余の慰安所にては其の他の事故起らず。開設後約1ヶ月にして「スマラン・クラブ」は閉鎖され、其属の婦女6名は余の慰安所に移りたり。之等の婦女は「スマラン・クラブ」(古谷経営)に比し余の慰安所は遥かに良い又同所にては2名が逃亡を企てしことなどを語りたり。 |
証言者 | 下田真治 |
証言者属性 | 第10被告、軍属(経営者)(32歳) |
部隊名 | |
資料タイトル | BC級裁判(オランダ)/バタビア裁判 106号事件/本人尋問 第10被告S.S軍属(経営者)(32歳) |
著者、公文書発信者など | |
公文書宛先 | |
発行日 | 1947.9.8 |
発行所 | |
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出典備考 | 国立公文書館蔵/wam公文書サイト:J_J_120/106-375~376 19745/R/参考資料:強制動員真相究明ネットワーク刊『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』2014年8月20日 |
備考 |