出典種別 | 公文書・軍関係資料等
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現在の地域情報 | 中部ジャワ州 スマラン |
資料にある地域情報 | スマラン ヒヌマル(日の丸) |
慰安所があった時期 | |
記載内容 | 【原文オランダ語】そこで一晩明かしてから、私は1943年の2月の末、夜10時、[ー]と塀を乗り越え、三輪車を呼んでゴンベルへ行きました。・・・11時頃、ゴンベルで現地人巡査に捕まり、行く先を尋ねられました。病気の家族を見舞いに行くところだ、と言ったのですが、[ー]は髪がブロンド、青い眼をしていましたから、信じてもらえず、ゴンベルの警察へ連れて行かれました。現地人巡査はスマラン警察の警視総監を電話で呼び出し、私たちはモーターバイクで本部の留置所に入れられましたが、ここでの扱いは悪くありませんでした。私たちがこの警視総監に私たちのことを少しばかり話しますと、日本人の警視総監にいい人がいるからそちらへ私の身柄を引き渡そう、と言いました。翌朝、現地巡査に伴われて、私たちはその日本人警視総監のところへバスで連れて行かれました。この日本人は、事実私たちを親切に扱ってくれ、最善を尽くすことを約束しました。その日の午後、[ー]が私たちを連れて来て、旅館De Wildeへまた戻されました。・・・2日後、私はナイフで動脈を切断して自殺を図ろうとしましたが、[ー]にナイフを取り上げられて、果たせませんでした。ほどなく、夕方7時頃になると、日本人の会社員や軍人たちが De Wilde旅館に来ました。彼等は名前は忘れましたが、メナド出身の2人から切符を買い求めました。De Wilde旅館に1ヶ月程いてから、ついに日本人[ー]の経営する「ヒヌマル」に連れて来られました。1943年の4月中半ば、[ー]が休んでいた時、流暢な英語を話す別の日本人が2人現れ、私たちが今の仕事を気に入っているかどうかを問いました。わたしたちが、この仕事は面白くない、と思っている、と伝えますと、この日本人たちは私たちがこの場所から出られるようにしよう、と約束しました。[ー]が戻って来ますと、「ヒヌマル」旅館は理由もなく閉鎖になりました。 |
証言者 | タイピスト |
証言者属性 | オランダ人証人 |
部隊名 | |
資料タイトル | スマラン事件 軍情報部調書・宣誓尋問調書 資料B/Nefis18(?)/BN/4075/- |
著者、公文書発信者など | |
公文書宛先 | |
発行日 | 1947.1.16 |
発行所 | |
ページ | |
出典備考 | 梶村太一郎、村岡崇光、糟谷廣一郎『「慰安婦」強制連行-〔史料〕オランダ軍法会議資料×〔ルポ〕私は”日本鬼子”の子-』金曜日、2008.6.6、136-137ページ |
備考 |
原文オランダ語は未入手
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