記載内容 | ジャワ人警視に連れられて抑留所へ戻り、荷物を準備してから、また同じ警視に連れられて警察署へ戻りました。ここで私たちは3人の日本人に引き渡され、3台の乗用車でマゲランへ向かい、午後4時に到着しました。・・・日本人医師たちによって健康診断を受けました。私たちは、14の家屋から成るトウグウレンという名前の小さな抑留所に落ち着きました。そこで私たちは44年1月25日に私たちの抑留所から連れ出された一団の女性や少女たちに出会いました。この一団には最初は10人いたのですが、私たちが到着した日に[ー]と[ー]との2人は抑留所へ帰って行きました。・・・1944年2月3日、私たちは再び日本人医師たちによって健康診断を受けました。今回は少女たちも含めて行われました。診断後に、私たちは日本人向け娼楼行きが決まっていると聞かされました。その日の晩から仕事始めだ、ということでした。・・・この兵士たちのなかの何人かが中に入って来たとき、そのうちの1人は私の部屋へ私を引きずって行きました。私がこれに対して抵抗しているところへ、憲兵が入って来ました。その憲兵は、私たちは彼らの言う通りにしなければならない、もしそうしなかったら、私たちの夫の住所は分かっているので、彼らに責任をとらせることになろう、と私に語りました。こう言ってから、憲兵は、その兵卒と私だけを残して立ち去りました。初めのうちは、私はなおも抵抗を続けました。しかし、私にはもちろん勝ち目はありませんでした。彼は衣服を私の身体からはぎ取り、私の両腕を後に捻りました。そこで私はもう手も足も出ず、彼は私に性交を迫りました。・・・この状態が3週間継続しました。週日には娼楼は日本人将校、日曜日の午後は日本軍下士官、日曜日の午前は兵卒らがやって来ました。 |