出典種別 | 被害証言 |
---|---|
現在の地域情報 | 南カリマンタン州 バンジャルマシン |
資料にある地域情報 | バンジャルマシン郊外 トゥラワン |
慰安所があった時期 | 1943年 |
記載内容 | 両親を亡くし10歳でお手伝いをして働いていました。歌手か女優になることが夢で1942年日本軍が軍政を引いた時「ボルネオで一緒に芝居をしよう」と幼なじみに誘われました。少女を募集していたのは正源寺寛吾(パンジャルマシン初代市長)でした。ボルネオに着くと48人の少女の半分は劇場や食堂に、残りの私たちは郊外のトゥラワンに連れていかれました。そこは慰安所でした。13歳の私は「モモエ」で11号室に入れられました。翌日、病院での身体検査の後6人の兵士に強かんされました。日本の敗戦まで3年あまり1日10-15人の日本兵に強かんされました。彼らは切符を支払いましたが換金されたことはありません。14歳のとき、妊娠5ヵ月で中絶手術を受け、生きていた自分の子どもを殺したという罪の意識と苦悩は今も消えません。慰安所の経営者で日本人のチカダからひどい暴力をうけ身体に後遺症が残っています。 |
証言者 | マルディエム |
証言者属性 | インドネシア人被害者 |
部隊名 | |
資料タイトル | 第13回特別展カタログ 「『アジア解放』の美名のもとに インドネシア・日本軍占領下での性暴力」 |
著者、公文書発信者など | アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam) |
公文書宛先 | |
発行日 | |
発行所 | アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam) |
ページ | 16 |
出典備考 | |
備考 |
他の証言資料等からトゥラワン慰安所については以下のとおり。 凹字型の建物。高い塀、20数部屋の狭い小部屋。初めの一年は、全員1人1部屋。部屋番号と日本語の源氏名で認識され、指名も受ける。中庭に別棟で事務所(受付)。管理者はチカダという日本人。40歳前後。彼の下でインドネシア人男性数人が働いていた。毎週土曜日に軍医の性病検査、毎朝8時に衛生兵の検査。軍属待遇者(役所や電話局の人)も受け入れた。時間は、正午から午後5時までが軍服の軍人、それ以降深夜12時までが私服の軍人。料金は、軍人が1時間2円50銭、軍属が3円50銭、泊まりは12円50銭。 バンジャルマシンは南カリマンタンの南部にある。慰安所のあったトゥラワンはマーケットとなっている。慰安所の跡は確認できる。 |