証言,公文書等,様々な文書を徹底調査

資料の詳細

出典種別 公文書・軍関係資料等
現在の地域情報東ヌサ・トゥンガラ州 フローレス島
資料にある地域情報フロレス
慰安所があった時期1944年
記載内容15-4-’44私の家へ1名の巡査が「貴嬢は16-4-’44にBodjongの警察本所へ出頭せざるべからず」と印刷した紙を持って来た。然し、之には私の名前は書いていないので、之を指摘すると、彼の答は「憲兵隊」に私の名を之に書き込むやうに命ぜられて来たとのことであった。それから彼はその紙を置いて行って了った。16-4-’44、警察へ行ってみるとそこには約100名程の娘が集まっていた。・・・それから我々は乗用車(複数)でGenielanのSplendid「ホテル」へ連れて行かれたが、此所には日本人の夫婦とその他数名の日本人が居た。我々は10名ずつ一列に列ばされ1名ずつ一種の部屋に呼び込まれた。私の番号は「130番」であった。検査をされている娘達が挙げる悲鳴や叫び声に驚かされて了って、私は部屋に入るのが非常に恐ろしかった。然し、遂に私の番が来て、入って行くと、この部屋の中には、1「山本さん」、2「ハシノワ」、3「ノザキ」、4「市川」の4名の日本軍人がいた。私が之等の日本人の名を憶えているのは、之等の軍人は私が後に送られたFlores島から来たものであり、又其所で私が入れられた慰安所と密接な関係があった者達であったからである。・・・「スラバヤ」では我々はKetoepastrostの「トドサン」と云ふ日本人の家に連れ込まれ、此所に1ヶ月居た。5名が1組で1室に入れられ、良い食事、必要な衣類、布地、毛布、蚊帳、化粧品等々全部無償でFloresから来た日本人「市川」が呉れたが、之は何のことはない後にFloresに着いてから全部支払はされた。此の「市川」は我々の部屋で、我々と一緒に寝て、毎晩LSと性交をやった。・・・3回目に出帆した時には約10日後にFlores島に到着した。・・・Floresに着いてから我々は17室有る大きな建物に入れられた。最初は3名1室に入れられたが、後には1人1室に入れられた。・・・慰安所に入る日本人は現金係のところで各人1盾半の切符を買はねばならなかった。此の切符は私に渡され、我々慰安婦は毎週纏めて之を「トドサン」の所に提出した。然し我々は最少切符100枚を出さないと、殴られたり、蹴られたりし、又此の点は特に厳命されていた。
証言者J.M.B(21歳)
証言者属性オランダ人被害者
部隊名
資料タイトルBC級裁判(オランダ)/バタビア裁判 106号事件/証言 J.M.B被害者
著者、公文書発信者など
公文書宛先
発行日1948.5.8
発行所
ページ
出典備考国立公文書館蔵/wam公文書サイト:J_J_099/106-314~316 2384/R/参考資料:強制動員真相究明ネットワーク刊『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』2014年8月20日
備考 250万分の1東印度諸島4号の地図のSOEMBA島の北にある細長い島がFLORES島である。
旧地図は次を参照のこと。
http://chiri.es.tohoku.ac.jp/~gaihozu/viewer/index.php?ghzno=TH011423
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